2008年7月11日 (金)

「意味」の意味

 「意味」の意味とは?前者の「意味」にはどうやら2つの意味が見い出せた。当然後者の方も2つの意味が見い出せる。これをオレは勝手に「意味1」と「意味2」と命名した。ところで「2つの意味が…」の「意味」の意味は1つだ。えっ?今言った「意味」はって?それも1つだ。

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 意味1は、「ある別の事象によって代理される、事象内容」あるいは「ある代理された事象(多くは表現されたもの)が指し示すところの当のもの」。C言語を知っていればポインタが指している変数なり関数といったところ。

int a;
int *pt = &a;

 たとえば信号機の赤色で表現されたものは、「止まれ」という内容を代理している(指し示している)。英語のdogは日本語で「犬」で表現されている動物を指している。もちろん正確には日米の単語間の概念(意味の幅)は必ずしも一致しないし、犬という単語自体も実際のそのものの代理であるが。ともあれ、これらを普通は「赤は止まれを意味している」、「dogは犬を意味している」という。そういうときの「意味」が意味1。

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 意味2は、「価値」とか「目的合致性」、「目的達成性」あるいは「利益の有無」といったもの。この場合の「意味」には必ず「誰にとっての」とか「何にとっての」という前提が付く。

 たとえば、「せっかく朝食をあきらめて間に合うように急いで走ってきたのに、予定よりも早くバスが出発してしまうなんて。これじゃあ<意味>がないじゃん!」というときの「意味」。せっかくの自分の努力が報われなかったということ。この場合、前提となるのは「自分にとって」ということ。そして、バスに乗るという努力の目的が達成できなかった、つまり意味があったと言える状況はバスに乗るという目的が達成された場合で、今回のように意味がないという状況は目的が不達に終わったという場合。

以下の例も同様。

 「あんなに日本はアメリカの言うことをハイハイ聞いてきたのに、今回アメリカが『北朝鮮』に対するテロ支援国家指定解除に踏み切ったことは、もはや日本の対米従属の<意味>がなくなったも同じことだ」

 「ゲームは楽しくなければ<意味>がない」

 「自殺するなんて。死ぬことに<意味>があるのか!いやまて、生きる<意味>っていったい何だ!?」

 「勝ち負けじゃない。参加することに<意味>があるんだ」

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 ところでソシュール言語学でいう、言葉の<意味>はちょっと複雑なようだ。あくまでオレの素人的解釈になるかもしれないけれど。

 言葉は何らかの対象物の名前だとも考えられる。ワンワンとほえる動物を犬という言葉で表現する。犬というのはワンワンとほえる動物につけられた名前だと。つまり犬という言葉はワンワンとほえる動物を意味している。犬はワンワンとほえる動物を指し示しているから意味1だということになる。

 ところでソシュールの考えによると、言葉(記号=シーニュ)はまず2つの側面に分けられるらしく、ひとつは「犬」という発音、その音そのもの、「 i nu 」。もうひとつはその音に関連付けられた対象物(ワンワンとほえる動物)。前者は「意味を与えるもの(シニフィアン)」、後者は「意味を与えられるもの(シニフィエ)」という。(英語でいえば前者は記号signの現在分詞形signing、後者は受身形signedになるのかな?)

 じゃあ結局は意味1と同じじゃないの?となるだろう。シニフィアンというのは犬という記号で表現されたものであって、シニフィエというのはその指し示されている内容であるワンワンとほえる動物だと。

 ところがソシュール(というか丸山圭三郎?)によれば、我々にはワンワンとほえる動物についての知覚は(おそらく)あるだろうが、言葉としての「犬」が存在しないうちは我々にとってワンワンとほえる動物はまだ認識されていない(それどころか存在すらしていない!)らしく、「い・ぬ」というシニフィアンとそれによって「ワンワンとほえる動物」としてカテゴライズされるシニフィエというものの2つ1組である言葉(単語)によってはじめて現実に知覚されている(はずの)ものが我々の認識対象となる(概念化される、そして存在する!)。というオレの理解が正しいのかどうかも実はよくわからないが。。。

 で、ここでのポイントは(非常に興味深いことに)、言葉によって意味づけされるということが、すなわち我々にとって意味2の意味で「意味づけされる」ということ。つまり言葉以前には意味2の意味で無意味な連続体でしかないあらゆる事象が、言葉化されることによって意味2の意味で我々にとって意味をもつようになるということ。(このことからすれば、とにもかくにも言語化される以前にも事象は存在していたといえるんだろうけど…)

 我々にとって意味をもつようになる、あるいは意味づけされるということが、別の言い方で我々に「関連付けられる」とも言われることからわかるように、意味2の意味での「意味」というのは言い換えれば「我々と関係をもつ」ということになる。つまり、意味2の本質は「関係性」だということも出来ると思う。すなわち我々は言葉を習得することによって我々をとりまく世界と関係していく存在だというわけだ。

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2008年7月10日 (木)

「主体」を問う「主体」ということ

 真理とは何かという問いを、その問いを問うている<主体>である我々自身についての問いへと視点を転換したのがニーチェだという。

 <主体>による問いから<主体>についての問いへというように、<主体>を問いの対象としたこと、すなわち<主体>を客体化したということだが、<主体>を対象として客観的に見ているところの当の観察者はほかでもない<主体>である我々自身だ。

 つまり、<我々>を観察する<我々>、その<我々>を観察しているのもまた<我々>……ということ。その無限の後進から明らかになること、それは「我々は常に見ている者」でありながら他方で「我々は常に見られている者」という二重性。

 ところで、ひたすら見る一方でしかないのに、ひたすら見られる一方でしかないというのは矛盾してる。二重性などと格好つけた言葉は実は何も語っていない。

 などなどよくわからないことを考えている。ヘーゲル、フロイト、ソシュールときたから、お次はミシェル・フーコー、、、と、その前に「意味」とは何かについてまとめておかないといけないかも。

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2008年7月 7日 (月)

言語学に足をとられて

 いま勉強していることの個人的な覚え書き。大した内容でないので読むだけ無駄です。

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 「思想」は死んだか?思想は死んではいない!と思う。それはわれわれの深いところでわれわれを相変わらず規定している。自らを相対化して捉えるという無意識的な、あるいはごく常識となっているわれわれの「ものの見方」は構造主義によってはじめてもたらされたものだという。

 そして今、われわれの世界観はさらに進化しようとしている。まだ理論的にしか語られていないわれわれをとりまく世界像のあたらしい知見、多次元宇宙論。数学的にはあり得るとされる3次元を超えた世界。加速させた素粒子をぶつけてその行き先を突き止めようという実験施設がもうすぐ出来上がるという。こうした取り組みによってわれわれの世界の見方はまた変わっていくのだろう。太陽系の終焉とか宇宙の終焉とかはわれわれが生きている時代には起こらないだろうから、そのことが直接われわれの生活にかかわりを持つということはない(むしろ温暖化等の問題こそがわれわれの生死にとって直接的な意味を持っている)。だがわれわれが、われわれの世界が本当はどうであるのかを知りたい、知らずにはいられない種である以上、宇宙論のあらたな知見はわれわれの世界認識にかならずや多大な変革をもたらすだろう。

 そうした宇宙論や量子論という根本的な世界認識の問題がある一方で、われわれにはいまだもっと身近である脳とか意識とかについての解明すらも出来ていない。そのどれもが非常に興味をそそられる問題ではあるが、さらに身近なところに視点を移せば、なぜ人は人殺しをしてしまうのかといった問題にもわれわれは確実な答えを見出すことが出来ていない。レベルに違いはあるにせよ、ともかく人間を知りたいという好奇心はこうして際限なく広がっていく(殺人を好奇心と呼ぶのは不謹慎かもしれないが)。

 と、まえおきはそれくらいにして、今オレの関心はとどまることを知らない凶悪犯罪事件、その背景について。だいぶ前に一冊の本を買った。『攻撃と殺人の精神分析』(片田珠美著・株式会社トランスビュー・2005年6月10日初版)。とても興味深い本だけど、どうもオレにはいまいち理解できない。それがきっかけでフロイト思想に関心を持った。もちろん深く学ぶだけの力もなければ時間もないので入門的なところだけ。いちおう目標はラカンの精神分析とした。正直、このあたりの思想にはぜんぜん興味がわかなかったのでずっと避けてきていた。すなわち、ソシュール、レヴィ・ストロース、ミシェル・フーコー、バルト、ラカン、ドゥールーズ、ガタリなどなど。いや、興味がわかなかったことよりも難しすぎて手を出すのを恐れていたのかもしれない。純粋に学問的関心からだったらきっと一生縁がなかっただろうと思うけど、幸いなことに身近なところで起こる凶悪事件というものがきっかけを与えてくれた。いや、それも違う。目的はあくまでも犯罪心理を知りたい、そしてみんなと語り合ってみたい、少しでもそういうものがなくなってほしいという思いで。いずれにしても解明のひとつの方法論としてこの精神分析というものを知りたいと思った。

 ところが当然ながらことはそう簡単にはいかなかった。フロイトからラカンへ行く道の途中にある構造主義というものはやはり相当に難しい。すでにソシュールの入り口で頭がパニック状態に陥っている。もう20年近く前になるが、丸山圭三郎(故人・ソシュール思想の代表格)の講義を受けていた友人と熱い議論をしていたのを思い出した。今思えばオレも何も知らなかったのによくも反発したものだと恥ずかしくなるが、友人のほうも理解が不十分だったようだ。それはそうと、ソシュールを勉強するのにずぶの素人でもわかる適当な入門書はないかと探してみたが、これが意外と少ない。丸山圭三郎著では『ソシュールの思想』、『ソシュールを読む』、『言葉と無意識』などがあるが、初めて触れるにはちょっと難しそうだ。『言葉と無意識』は昔挫折した。『現代言語論』(立川健二他)にざっと目を通した後、町田健『ソシュールと言語学』、『コトバの謎解き ソシュール入門』を読んでみたが、この人本当に言語学者なのか!?というくらい文章がわかりにくい。内容の難しさ以前に日本語の書き方が下手な気がする…(文の区切り方とか変!?)。結局いちばん分かりやすかったのは丸山圭三郎の『言葉とは何か』(ちくま学芸文庫)だった。とてもていねいでかみ砕いて書かれていた。ただ、どうしても言ってることが納得できない。「言葉は認識のあとにくるのではなく、言葉は認識自体である」というメルロ・ポンティの言葉を引用して言葉の本質を表現していたが、「混沌とした連続体」である「言語外現実」に対する差異の認識(無意識下での「或る事象」の区切り化?)が言語化に先立つように思えてならない。「タマゴが先かニワトリが先か」の議論になりそう…。何と言おうとわれわれはすでにこの日本語の意味体系の中に育ち、すでに言語習得をし、<私>なるものの概念化も済ませてしまっているので、いまから前言語化の時期を想像するのも困難だ。ましてや原始人の気持ちになれといわれてもさらに不可能に近い。せいぜい乳児期の言語習得過程についての研究でも参考にするしかないと思う。というわけで、今読み始めたのが『赤ちゃんはコトバをどのように習得するか』(B・ド・ボワソン=バルディ・藤原書店)。同時進行で現在の言語学の中で、認知言語学という分野を選んで読んでいる。いずれにしても、言語学はある程度納得できればあまり深入りしたくないと思っている。けれどそうもいかず…。まったくやっかいなところに足を踏み入れてしまった!

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2008年6月23日 (月)

変わりゆくのはパロール?ラング?

① 「けのー ちょるってんどぉ にも つりんとしもぬぬっきこもらちゃきに~」

② 「きのうマジかんべん。てかあいつわけわかんねーし!」

③ 「昨日は本当にやめてもらいたかったよ。それにしても、あいつはおかしなことを言うよなぁ。」

 日本語はかなり自由度の高い言語(ラング)なのかもしれない。でも②はまだ意味がわかる。けど①に至ってはまったく何を言ってるのかわからない!(もちろん、デタラメに書いたから誰にもわかるわけないけど)

 文化を壊していくのはきっと若者なんだろう。そして新たな文化を作っていくのも若者なんだろう。ある小グループ内でだけ通じていた言葉がある若い世代に広がってその世代での常識になる。その世代がやがて大人になっていくのだ。

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2008年6月19日 (木)

同性愛者のこと

 正直、理解できない。アメリカのカリフォルニアかどこかの州で同性愛者の結婚が法的に認められたとかいうニュースを見た。男性同士でキスしてた。ちょっと、ひいた、、、これって「差別」意識のあらわれなのかなぁ?そんなつもりもないんだけど、、、

 同性愛のことについて、何も知らない。とくに興味、関心ない。だから結婚しようがどうしようが賛成も反対もない。お互いに好きだというのだからいいんじゃない!?と思う。かえって反対だという人の方が何故??と思ってしまう。犯罪じゃないでしょ?他人に迷惑をかけるわけでもないし、それで社会の秩序が乱れるということもないと思うし。種の保存上大きな問題になるとも思えないし。まさか人間の尊厳どうのという問題じゃないでしょ?

 猛烈に抗議したりする反対者の考えがわからない、、、けど、なんで同性を好きになれるのか、愛せるのか、性の対象になるのかはわからない。

 でもなぁ、、、じゃあなんで男性なら女性を好きになったり愛したり性的対象にしたりするの?って聞かれると、そういえばなんでだかわからない!なんで異性に気持ちが向かってしまうのかなぁ、、、生物としてあたり前のことで、本能なんだと言われればそれまでだけど。

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2008年6月12日 (木)

秋葉原事件K青年のこと

 K容疑者(以下「彼」という)についての専門家の分析という記事を読んでみた。

( 記事URL→ http://netallica.yahoo.co.jp/news/37569

 限られた情報からだけど、オレはこう思う。

 福井へナイフを買いに行ったときのレジでの彼の笑顔が印象的だった。どことなく落ち着かない様子、そわそわした様子、レジの女性(だよね?)の応対に満足していたようだ。サイトへの書き込みで、「店員さん、いい人だった」と率直ととれる感想が書かれている。そのあと「人間と話すのって、いいね」と。すぐあとには「タクシーのおっちゃんともお話した」とある。もちろんそれが型どおりの接客にすぎないのだろうとも考えていたと思うが、このちょっとした他人との屈託のない触れ合いが彼の決意を少しでも弱らせてくれていたらと思ってしまったのだが…。でも、すでに彼の閉ざされた心は簡単には開かないところまできていたのだろう。

 徹底的なまでの自己卑下。被害者意識だ。

 彼は小学生時代には皆から一目置かれる存在だったそうだ。少なくとも彼の主観的にはヒーローであり、皆から尊敬される存在だったのだろう。このときの心地よい感覚がずっと彼にとっての拠り所となっていたのだろう。自己愛的な万能感に満ちたこうした経験が彼の願望として無意識下でずっと彼を支配し続けた。願望であることは、彼が見た「夢」からうかがい知ることができる。6月4日早朝の書き込みにはこうある。「おかしな夢だった」「唐突に小学生の頃を思い出した」「人生にはモテ時期が3度あるらしいけど、俺のモテ時期は小4、小5、小6だったみたいだ」

 高校進学以降の挫折。その現実を彼は「否認」しようとしていただろう。「こんなの本当の俺じゃない!」「本当の俺はもっとすごい人間なんだ!」…「否認」というのは自己防衛心理のひとつだという。その間、まさに小学生時代が彼にとっての拠り所だったはず。

 それでも否応なく突きつけられる現実!!彼にとって不本意だったであろう短大進学、派遣労働、単純作業。6月5日早朝の書き込み「派遣がやってた作業をやりたがる正社員なんているわけない」「自分は無能です、って言ってるようなもんだし」。また6月6日には「誰でもできる簡単な仕事だよ」とも。「工業も運輸も、底辺か」「勝ち組はみんな死んでしまえ」と書いてるように自分を「負け組」と認識し、そこから一生抜け出せないという考えに固執してしまっていたようだ。

 逃れられない現実!!!

 それでも人間には自己防衛心理(自我の防衛機制)というものが働いてしまう。それは自分を「被害者」とすることだった。責任を「不細工な顔」に押し付けること。顔がそうなのは自分のせいではない。こんな顔に生んだ親のせいだ!と。

 彼にとっての執拗なまでの「彼女」願望。彼にとって彼女という存在は何だったのか?もちろん性欲はあるだろう。誰だってある。ただそれ以上に彼にとって彼女ができるということは、自分の自己愛欲求を充たしてくれることになるはずだった。そう考えられるんじゃないだろうか。6月4日夜の書き込み、「女性にとって、彼氏は自分の価値を証明するもの」。つまり女性に選ばれるということはそれだけその男は彼女にとって(世間一般にとっても)価値のある存在だということの証なのだ。彼にとってはそれが逆証明だ。

 「彼女なんか絶対できないのに」「諦めれば幸せになれるのに」…諦めるということは自分の拠り所の放棄だった。自分にとっての誇りを捨てることだった。自分が昔の栄光という幻想に固着していること、それが彼の歩みを止めていることをうすうす彼も分かっていたのかもしれない。だが、それを捨てることは自分を捨てること、人生を投げ出すことになるとも直感的に感じていたのかもしれない。客観的に見たらそんな直感は間違っているのだけど、そこまでわかっていて教え導いてくれるような人もいない。

 「心の闇」というまでもなく、比較的単純な心理ではないだろうか、というのがオレの考えなんだけど。

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2008年5月23日 (金)

人を殺すということ

 他の生き物と同じく、人間も共同体を形成して生きている。共同体の中では当然ながらルールがある。ルールがなければ共同体を維持することはできない。ルールといっても人間以外の生き物は文字を使ったりできないのだから法律を作ったりはしない。本能としてルールを持っているにすぎない。ここでいうルールとはそういう広範囲な概念だ。たいていは同種のもの同士で必要もなく殺し合ったりはしない。

 同種間で争いごとになった場合、各々がとる行動は「闘争」と「逃避」と「威嚇」と「降伏」の4つになるという。そしてまず本能がとるのは「威嚇」と「逃避」だという。

 人間でもそれは基本的に同じだという。不良グループがとる行動も然り。自分の力を誇示するための「威嚇」をおこなうことでできるだけ「闘争」に発展しないようにする。相手を「降伏」させるか相手に「逃避」を促す。人間同士の戦闘である戦争においてすら…

 戦争においてすら…、従来は戦争において兵士は、上官の命令に服従しまた国家や仲間のためにそして自分の身を守るためにすすんで敵を殺すものだと思われてきたが、実際に相手(敵)を殺すために銃撃をする兵士は全体の15~20%にすぎないという。この割合は戦闘の規模にかかわらずほぼ一定だと…。( 『戦争における「人殺し」の心理学』 デーヴ・グロスマン著 ちくま学芸文庫 )

 よほど特殊な(病的な)性格か精神異常をきたした者が殺人を起こすことはある。あるいはよほどの恨みを抱いて殺人を犯す者もいる。それでもまずは「威嚇」という行動をとるのが自然だろうと思う。なぜ「普通の」人が簡単に相手を殺すという行動に出てしまうのか?恨みが積もり積もった末のことならまだしも、「相手は誰でもいい。人を殺してみたい」という動機にいたってはいっそう理解しがたいものがある。

 絶望による自殺、政治目的によるテロや無差別殺人。自身を含め人が人という同種を殺すという行為にはいろいろなものがある。容認はできないものの、理由については理解できないわけでもない。問題は理解不能な殺人だ。理解不能というのは、われわれの学がまだ解明できていない人間の本性なのかもしれないし、あるいはひとつの進化(もちろん善い方向への進化とは限らない)なのかもしれない。

 しばしばテレビやインターネット、ゲームの影響が指摘される。共通するのは「なまみの他者」の不在だろうか。心理学者A.アドラーは「人間の最も強い傾向のひとつは、孤立した個人としてでなく社会の一員として生きるために集団を形成すること」といった。この傾向が本来の人間の本性なのだろうが、テレビやネットはたとえ個人と個人が相互に交信できたとしても「媒介された」交信だ。ゲームではいっそうそうだ。通信型の格闘ゲームでは相手がなまみの人間であるにもかかわらず媒介されているという点で、一見リアル感は増すがかえって「媒介」の意味が強調され非人間感が増幅されると言えないだろうか。

 共同体の中でルールにしたがうということは、すなわち自分の欲求や欲望を抑えなければならないということでもある。かならずしも自分の思い通りにならないこと、場合によっては上下関係にしばられ、強い者の前に降伏しなければならないということ。個人の人生の統一は社会的な関係性という文脈に関連づけられてこそなされると。

 たとえば孤立してしまう人もいる。それはあくまでも社会生活に適応できないということである。つまり孤立というのは共同との関係において成り立つものであるという点で社会性の一部であるといえる。孤立した者が何とか共同体に同調できるよう努力する方向であればよいのだが、孤立してもネットやゲームといった「居場所」(バーチャル世界)を持ってしまうと、そこからなまみの共同体社会へ復帰する努力をしないで済んでしまうということが起こりうる。言い方は悪いが完全な「引きこもり」状態ではなく、中途半端に社会(リアル世界)に関わりを持っていると問題が発生しやすくなってしまう。(完全な社会からの隔離が別の問題を持っていることを否定しているわけではない!)

 若者の「全能感」が問題にされることがある。全能感は昔から言われていることで、たとえば過度の「自己愛性者」、過度のナルシストで問題になってきたし、極端でない場合でも「モラトリアム世代」などでも言われてきた。新しい要素としてはネットの爆発的な普及によるリアル感のあるバーチャル世界、ゲームにおけるよりリアルになっていくバーチャル世界があるだろう。とくに後者ではリアル感が増した分まさに主人公である自分が全能の神であるかのような錯覚を起こしやすくなっているといえないだろうか。

 「どうして人を殺してはいけないんですか?」という問いにわざわざ答えなくてはならないこと自体、おかしいことだ。共同体としての自然本能的なルールが見失われてきているということだろうか。

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2008年5月20日 (火)

抑圧の反動としての殺人?(1)

 ここのところ性の抑圧について考えている。少年等による殺人事件の背景を探るために。

 性欲は本能だ。生殖行為がなければ子孫は残らないのだから、人間は本能の声にしたがって何とか性欲を維持しようと戦略を練る。戦略を練るといっても別に人間理性がそうするわけではなく、それは一種の「知恵」というものだろう。

 衣服の起源について何か適当な本を探そうと思ったが、これがなかなか見つからない。仕方ないので自分で想像してみるしかないと思った。人間が衣服をまとうのはなぜだろう?サルから分かれた人類は当初は衣類を身に付けていなかっただろう。全身が毛で覆われていたので性器を露出することもなかった。なぜ毛が失われていったのかは置いといて、衣服をまとうべき理由を考えると、考えられるのは第一に寒い地域に進出した人類が寒さから身を守るために衣服(らしきもの)を身に付けたというもの。第二に大切な性器を守るためというもの。第三に羞恥心のようなものがいつからか備わったためだというもの。ちなみに、本来われわれには羞恥心があるのだという説があるらしい。いっけん羞恥心というと文明の発達とともに社会生活上の必要として身に付けていった感情であるように思える。たとえば生まれてすぐの赤ちゃんに羞恥心があるとは考えにくいからだ。とはいえ、何かのきっかけで異性を意識することで突然「恥ずかしい」という感情が湧き起こってくるのだと考えると、どうもア・ポステリオリなものというよりは生来のものだとも思えてくる。そこで、羞恥心を本能によるストラテジーの一種だという考え方が出てくる。つまり生きていく上での一種の知恵のよるものだと。もちろんここでいう知恵とは自然発生的なものだ。ではそもそもなぜ羞恥心というものが生じたのかといえば、社会を成り立たせるためだという。羞恥心がなく、つねに性器を露出していれば男たちはいつでも欲情していて、そうなると社会を成り立たせる基本単位である一定の集団あるいは家族という秩序が保てなくなるわけだ。他の動物のように発情期があれば無制限な性交も行なわれなくて済むだろうが、人間の場合には発情期というものがないので、何らかの欲情を抑える装置が必要だったというわけだ。それが羞恥心の発生を促し、それによって衣服を身に付けるようになったのだと。もしかしたら禁断のリンゴを食べたことによるのかもしれないが…。

 さて、衣服の起源が最後の理由によるものだとすると矛盾も生じる。目的は種として子孫を残すことであり、そのためには何とか性欲を維持しなければならないのだとしたら、わざわざ衣服によって欲情を抑える必要はないといえる。たしかに一方にはコミュニティを維持しなければならず、そのためには秩序の維持が必要であり、そのために無制限な性交を抑えなければならないという事情があるのだが、そのことによって他方では生殖行為が制約を受け、結果としてより多く子孫を残すという目的を阻害しているわけだ。もちろんこれは衣服の起源の第三の説をとった場合に指摘できる話であるが。

 ところで衣服の話が突然出てきたからいっそう混乱するのだが、なぜそもそも衣服の話なのかといえば、性交をどんどんすべきだというのなら衣服など要らないはずだ。もっとオープンにしておけばいい。それなのになぜ人間は衣服をまとうのか。本能である性欲を語るためにもどうしても衣服の謎を考えなければならないのだ。

 矛盾の話にもどろう。一方で子孫を残すために性欲が必要であり、一方では人間が生存するためには社会性も必要でそこには秩序がなければならない。衣服の起源が秩序維持にあるとした場合、矛盾が生じてしまう。ひとつの逆説的な考え方がある。羞恥心があるため衣服を身に付けることになったわけだが、衣服によって隠されたためにかえって性欲が起こってくるというものだ。コーンフレークはおいしい。でもおいしいからといって毎日食べていると逆に飽きてしまう。同様に常日ごろから裸体を晒しているとかえって飽きてしまう。たとえ性交によって快感を得られるという本能のストラテジーが組み込まれていたとしてもだ。つまり社会性を維持しながら同時に性欲も惹起されるためにこそ衣服が存在するのだと。そうだとすると今度は、無制限な性欲という前提が成り立たなくなってしまうのだが。

 性欲と衣服のこれ以上の話は本来の話題から外れてしまうのでこれぐらいにする。ついでながら以上の話では男女の立場によって微妙な違いがあると思うので、あくまで一側面の話だということにも注意してもらいたい。

 

 けっきょく本題(過度な抑圧がかえって歪んだ形となって爆発してしまうということについての考察)に入るまえに今回は力尽きてしまった…。

 つづく…(かな?)

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