2008年7月11日 (金)

「意味」の意味

 「意味」の意味とは?前者の「意味」にはどうやら2つの意味が見い出せた。当然後者の方も2つの意味が見い出せる。これをオレは勝手に「意味1」と「意味2」と命名した。ところで「2つの意味が…」の「意味」の意味は1つだ。えっ?今言った「意味」はって?それも1つだ。

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 意味1は、「ある別の事象によって代理される、事象内容」あるいは「ある代理された事象(多くは表現されたもの)が指し示すところの当のもの」。C言語を知っていればポインタが指している変数なり関数といったところ。

int a;
int *pt = &a;

 たとえば信号機の赤色で表現されたものは、「止まれ」という内容を代理している(指し示している)。英語のdogは日本語で「犬」で表現されている動物を指している。もちろん正確には日米の単語間の概念(意味の幅)は必ずしも一致しないし、犬という単語自体も実際のそのものの代理であるが。ともあれ、これらを普通は「赤は止まれを意味している」、「dogは犬を意味している」という。そういうときの「意味」が意味1。

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 意味2は、「価値」とか「目的合致性」、「目的達成性」あるいは「利益の有無」といったもの。この場合の「意味」には必ず「誰にとっての」とか「何にとっての」という前提が付く。

 たとえば、「せっかく朝食をあきらめて間に合うように急いで走ってきたのに、予定よりも早くバスが出発してしまうなんて。これじゃあ<意味>がないじゃん!」というときの「意味」。せっかくの自分の努力が報われなかったということ。この場合、前提となるのは「自分にとって」ということ。そして、バスに乗るという努力の目的が達成できなかった、つまり意味があったと言える状況はバスに乗るという目的が達成された場合で、今回のように意味がないという状況は目的が不達に終わったという場合。

以下の例も同様。

 「あんなに日本はアメリカの言うことをハイハイ聞いてきたのに、今回アメリカが『北朝鮮』に対するテロ支援国家指定解除に踏み切ったことは、もはや日本の対米従属の<意味>がなくなったも同じことだ」

 「ゲームは楽しくなければ<意味>がない」

 「自殺するなんて。死ぬことに<意味>があるのか!いやまて、生きる<意味>っていったい何だ!?」

 「勝ち負けじゃない。参加することに<意味>があるんだ」

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 ところでソシュール言語学でいう、言葉の<意味>はちょっと複雑なようだ。あくまでオレの素人的解釈になるかもしれないけれど。

 言葉は何らかの対象物の名前だとも考えられる。ワンワンとほえる動物を犬という言葉で表現する。犬というのはワンワンとほえる動物につけられた名前だと。つまり犬という言葉はワンワンとほえる動物を意味している。犬はワンワンとほえる動物を指し示しているから意味1だということになる。

 ところでソシュールの考えによると、言葉(記号=シーニュ)はまず2つの側面に分けられるらしく、ひとつは「犬」という発音、その音そのもの、「 i nu 」。もうひとつはその音に関連付けられた対象物(ワンワンとほえる動物)。前者は「意味を与えるもの(シニフィアン)」、後者は「意味を与えられるもの(シニフィエ)」という。(英語でいえば前者は記号signの現在分詞形signing、後者は受身形signedになるのかな?)

 じゃあ結局は意味1と同じじゃないの?となるだろう。シニフィアンというのは犬という記号で表現されたものであって、シニフィエというのはその指し示されている内容であるワンワンとほえる動物だと。

 ところがソシュール(というか丸山圭三郎?)によれば、我々にはワンワンとほえる動物についての知覚は(おそらく)あるだろうが、言葉としての「犬」が存在しないうちは我々にとってワンワンとほえる動物はまだ認識されていない(それどころか存在すらしていない!)らしく、「い・ぬ」というシニフィアンとそれによって「ワンワンとほえる動物」としてカテゴライズされるシニフィエというものの2つ1組である言葉(単語)によってはじめて現実に知覚されている(はずの)ものが我々の認識対象となる(概念化される、そして存在する!)。というオレの理解が正しいのかどうかも実はよくわからないが。。。

 で、ここでのポイントは(非常に興味深いことに)、言葉によって意味づけされるということが、すなわち我々にとって意味2の意味で「意味づけされる」ということ。つまり言葉以前には意味2の意味で無意味な連続体でしかないあらゆる事象が、言葉化されることによって意味2の意味で我々にとって意味をもつようになるということ。(このことからすれば、とにもかくにも言語化される以前にも事象は存在していたといえるんだろうけど…)

 我々にとって意味をもつようになる、あるいは意味づけされるということが、別の言い方で我々に「関連付けられる」とも言われることからわかるように、意味2の意味での「意味」というのは言い換えれば「我々と関係をもつ」ということになる。つまり、意味2の本質は「関係性」だということも出来ると思う。すなわち我々は言葉を習得することによって我々をとりまく世界と関係していく存在だというわけだ。

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2008年7月 9日 (水)

光を放った謎の○○

Maytre2

何のこっちゃわからない人は3つ前のブログをみてくれ

別にみなくていいがや

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2008年7月 8日 (火)

あれはなんだろう?

 前回のブログのとってもグロテスクなもの、、、

 見て気分悪くした人がいたらごめんなさい(これ!→ http://oreteki2.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_3be0.html )。

 それにしてもあれは何なんだろう??

 どこで入手したの?
 自分で作ったの?(Photoshopのフィルタで作れるじゃん!?)
 何かの写真?

とか聞かれても答えられないから、、、

ただ、これはいったいなんだろう!?とひたすら考えるのみ。

 人間の体の一部だろうか……細胞分裂のようにも見える。

 ヘドロのうえに何かを浮かべたようにも見える。

 点々と散らばる赤い点はなんだろう?

 人間の…ドロドロした欲望を象徴しているかのようだ。

 宇宙を外側から写真に撮ったものかもしれない…白やみどりのかたまりのひとつが私たちの生きている宇宙なのだ。

 実は……わからない!

 わからなくていいものだから!?

 大事なのは「わからない」こと!

 ところで、この「画」は静止画だからわからないと思うけど、実はいまは眠った状態なのだ。ときどき活性化することがある。全体が金色っぽく光輝くのだ!その「画」は次回アップする予定。

 「ときどき活性化することがある」だって!?じゃあ動画があるのか?身の回りで観察できるものなのか?

 私たちは、こうした「未知」のものに出会うと、とりあえず今まで経験してきたもの(概念化されたもの)を一生懸命に引っ張り出してきて、なんとか何かと結びつけようとする。

 それにはまだ名前がない。私たちの記憶にはたしかに似たような概念があるにはあるが、それ自体をそっくり包摂するような概念はないし、当然名前が見つからない。

 それ自体をズバリ表わす言葉もなく、よって概念としても持ち合わせていないけれど、私たちがそれを知覚しているのは確かなことだ。自分がいま知覚しているということも自覚している。

 この、いまだかつて「カテゴリー化」されていない未知のもの。カテゴリー化することが言葉のもつ重要な機能のひとつだとすれば、そのものは私たちの「言語=意味」体系の外にあるものといえるのではないか。

 とりあえずいま、「それ」は私たちの習得した概念「ではないもの」という否定的な規定を与えることによって私たちに認識されているといってもいいかもしれない。なぜなら、「それ」という言葉で指し示されてはいても、よくよく考えてみれば「それ」という言葉に含まれている意味(価値)は「それじゃないものではないもの」という以外にはないように思えるから。

 と、ほんとは自分でも何を言ってるのかよくわかっていない。自分で自分の理解を試しているということだから。

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これはなんだろう?

Maytre

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2008年7月 7日 (月)

言語学に足をとられて

 いま勉強していることの個人的な覚え書き。大した内容でないので読むだけ無駄です。

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 「思想」は死んだか?思想は死んではいない!と思う。それはわれわれの深いところでわれわれを相変わらず規定している。自らを相対化して捉えるという無意識的な、あるいはごく常識となっているわれわれの「ものの見方」は構造主義によってはじめてもたらされたものだという。

 そして今、われわれの世界観はさらに進化しようとしている。まだ理論的にしか語られていないわれわれをとりまく世界像のあたらしい知見、多次元宇宙論。数学的にはあり得るとされる3次元を超えた世界。加速させた素粒子をぶつけてその行き先を突き止めようという実験施設がもうすぐ出来上がるという。こうした取り組みによってわれわれの世界の見方はまた変わっていくのだろう。太陽系の終焉とか宇宙の終焉とかはわれわれが生きている時代には起こらないだろうから、そのことが直接われわれの生活にかかわりを持つということはない(むしろ温暖化等の問題こそがわれわれの生死にとって直接的な意味を持っている)。だがわれわれが、われわれの世界が本当はどうであるのかを知りたい、知らずにはいられない種である以上、宇宙論のあらたな知見はわれわれの世界認識にかならずや多大な変革をもたらすだろう。

 そうした宇宙論や量子論という根本的な世界認識の問題がある一方で、われわれにはいまだもっと身近である脳とか意識とかについての解明すらも出来ていない。そのどれもが非常に興味をそそられる問題ではあるが、さらに身近なところに視点を移せば、なぜ人は人殺しをしてしまうのかといった問題にもわれわれは確実な答えを見出すことが出来ていない。レベルに違いはあるにせよ、ともかく人間を知りたいという好奇心はこうして際限なく広がっていく(殺人を好奇心と呼ぶのは不謹慎かもしれないが)。

 と、まえおきはそれくらいにして、今オレの関心はとどまることを知らない凶悪犯罪事件、その背景について。だいぶ前に一冊の本を買った。『攻撃と殺人の精神分析』(片田珠美著・株式会社トランスビュー・2005年6月10日初版)。とても興味深い本だけど、どうもオレにはいまいち理解できない。それがきっかけでフロイト思想に関心を持った。もちろん深く学ぶだけの力もなければ時間もないので入門的なところだけ。いちおう目標はラカンの精神分析とした。正直、このあたりの思想にはぜんぜん興味がわかなかったのでずっと避けてきていた。すなわち、ソシュール、レヴィ・ストロース、ミシェル・フーコー、バルト、ラカン、ドゥールーズ、ガタリなどなど。いや、興味がわかなかったことよりも難しすぎて手を出すのを恐れていたのかもしれない。純粋に学問的関心からだったらきっと一生縁がなかっただろうと思うけど、幸いなことに身近なところで起こる凶悪事件というものがきっかけを与えてくれた。いや、それも違う。目的はあくまでも犯罪心理を知りたい、そしてみんなと語り合ってみたい、少しでもそういうものがなくなってほしいという思いで。いずれにしても解明のひとつの方法論としてこの精神分析というものを知りたいと思った。

 ところが当然ながらことはそう簡単にはいかなかった。フロイトからラカンへ行く道の途中にある構造主義というものはやはり相当に難しい。すでにソシュールの入り口で頭がパニック状態に陥っている。もう20年近く前になるが、丸山圭三郎(故人・ソシュール思想の代表格)の講義を受けていた友人と熱い議論をしていたのを思い出した。今思えばオレも何も知らなかったのによくも反発したものだと恥ずかしくなるが、友人のほうも理解が不十分だったようだ。それはそうと、ソシュールを勉強するのにずぶの素人でもわかる適当な入門書はないかと探してみたが、これが意外と少ない。丸山圭三郎著では『ソシュールの思想』、『ソシュールを読む』、『言葉と無意識』などがあるが、初めて触れるにはちょっと難しそうだ。『言葉と無意識』は昔挫折した。『現代言語論』(立川健二他)にざっと目を通した後、町田健『ソシュールと言語学』、『コトバの謎解き ソシュール入門』を読んでみたが、この人本当に言語学者なのか!?というくらい文章がわかりにくい。内容の難しさ以前に日本語の書き方が下手な気がする…(文の区切り方とか変!?)。結局いちばん分かりやすかったのは丸山圭三郎の『言葉とは何か』(ちくま学芸文庫)だった。とてもていねいでかみ砕いて書かれていた。ただ、どうしても言ってることが納得できない。「言葉は認識のあとにくるのではなく、言葉は認識自体である」というメルロ・ポンティの言葉を引用して言葉の本質を表現していたが、「混沌とした連続体」である「言語外現実」に対する差異の認識(無意識下での「或る事象」の区切り化?)が言語化に先立つように思えてならない。「タマゴが先かニワトリが先か」の議論になりそう…。何と言おうとわれわれはすでにこの日本語の意味体系の中に育ち、すでに言語習得をし、<私>なるものの概念化も済ませてしまっているので、いまから前言語化の時期を想像するのも困難だ。ましてや原始人の気持ちになれといわれてもさらに不可能に近い。せいぜい乳児期の言語習得過程についての研究でも参考にするしかないと思う。というわけで、今読み始めたのが『赤ちゃんはコトバをどのように習得するか』(B・ド・ボワソン=バルディ・藤原書店)。同時進行で現在の言語学の中で、認知言語学という分野を選んで読んでいる。いずれにしても、言語学はある程度納得できればあまり深入りしたくないと思っている。けれどそうもいかず…。まったくやっかいなところに足を踏み入れてしまった!

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2008年6月23日 (月)

変わりゆくのはパロール?ラング?

① 「けのー ちょるってんどぉ にも つりんとしもぬぬっきこもらちゃきに~」

② 「きのうマジかんべん。てかあいつわけわかんねーし!」

③ 「昨日は本当にやめてもらいたかったよ。それにしても、あいつはおかしなことを言うよなぁ。」

 日本語はかなり自由度の高い言語(ラング)なのかもしれない。でも②はまだ意味がわかる。けど①に至ってはまったく何を言ってるのかわからない!(もちろん、デタラメに書いたから誰にもわかるわけないけど)

 文化を壊していくのはきっと若者なんだろう。そして新たな文化を作っていくのも若者なんだろう。ある小グループ内でだけ通じていた言葉がある若い世代に広がってその世代での常識になる。その世代がやがて大人になっていくのだ。

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2008年5月23日 (金)

人を殺すということ

 他の生き物と同じく、人間も共同体を形成して生きている。共同体の中では当然ながらルールがある。ルールがなければ共同体を維持することはできない。ルールといっても人間以外の生き物は文字を使ったりできないのだから法律を作ったりはしない。本能としてルールを持っているにすぎない。ここでいうルールとはそういう広範囲な概念だ。たいていは同種のもの同士で必要もなく殺し合ったりはしない。

 同種間で争いごとになった場合、各々がとる行動は「闘争」と「逃避」と「威嚇」と「降伏」の4つになるという。そしてまず本能がとるのは「威嚇」と「逃避」だという。

 人間でもそれは基本的に同じだという。不良グループがとる行動も然り。自分の力を誇示するための「威嚇」をおこなうことでできるだけ「闘争」に発展しないようにする。相手を「降伏」させるか相手に「逃避」を促す。人間同士の戦闘である戦争においてすら…

 戦争においてすら…、従来は戦争において兵士は、上官の命令に服従しまた国家や仲間のためにそして自分の身を守るためにすすんで敵を殺すものだと思われてきたが、実際に相手(敵)を殺すために銃撃をする兵士は全体の15~20%にすぎないという。この割合は戦闘の規模にかかわらずほぼ一定だと…。( 『戦争における「人殺し」の心理学』 デーヴ・グロスマン著 ちくま学芸文庫 )

 よほど特殊な(病的な)性格か精神異常をきたした者が殺人を起こすことはある。あるいはよほどの恨みを抱いて殺人を犯す者もいる。それでもまずは「威嚇」という行動をとるのが自然だろうと思う。なぜ「普通の」人が簡単に相手を殺すという行動に出てしまうのか?恨みが積もり積もった末のことならまだしも、「相手は誰でもいい。人を殺してみたい」という動機にいたってはいっそう理解しがたいものがある。

 絶望による自殺、政治目的によるテロや無差別殺人。自身を含め人が人という同種を殺すという行為にはいろいろなものがある。容認はできないものの、理由については理解できないわけでもない。問題は理解不能な殺人だ。理解不能というのは、われわれの学がまだ解明できていない人間の本性なのかもしれないし、あるいはひとつの進化(もちろん善い方向への進化とは限らない)なのかもしれない。

 しばしばテレビやインターネット、ゲームの影響が指摘される。共通するのは「なまみの他者」の不在だろうか。心理学者A.アドラーは「人間の最も強い傾向のひとつは、孤立した個人としてでなく社会の一員として生きるために集団を形成すること」といった。この傾向が本来の人間の本性なのだろうが、テレビやネットはたとえ個人と個人が相互に交信できたとしても「媒介された」交信だ。ゲームではいっそうそうだ。通信型の格闘ゲームでは相手がなまみの人間であるにもかかわらず媒介されているという点で、一見リアル感は増すがかえって「媒介」の意味が強調され非人間感が増幅されると言えないだろうか。

 共同体の中でルールにしたがうということは、すなわち自分の欲求や欲望を抑えなければならないということでもある。かならずしも自分の思い通りにならないこと、場合によっては上下関係にしばられ、強い者の前に降伏しなければならないということ。個人の人生の統一は社会的な関係性という文脈に関連づけられてこそなされると。

 たとえば孤立してしまう人もいる。それはあくまでも社会生活に適応できないということである。つまり孤立というのは共同との関係において成り立つものであるという点で社会性の一部であるといえる。孤立した者が何とか共同体に同調できるよう努力する方向であればよいのだが、孤立してもネットやゲームといった「居場所」(バーチャル世界)を持ってしまうと、そこからなまみの共同体社会へ復帰する努力をしないで済んでしまうということが起こりうる。言い方は悪いが完全な「引きこもり」状態ではなく、中途半端に社会(リアル世界)に関わりを持っていると問題が発生しやすくなってしまう。(完全な社会からの隔離が別の問題を持っていることを否定しているわけではない!)

 若者の「全能感」が問題にされることがある。全能感は昔から言われていることで、たとえば過度の「自己愛性者」、過度のナルシストで問題になってきたし、極端でない場合でも「モラトリアム世代」などでも言われてきた。新しい要素としてはネットの爆発的な普及によるリアル感のあるバーチャル世界、ゲームにおけるよりリアルになっていくバーチャル世界があるだろう。とくに後者ではリアル感が増した分まさに主人公である自分が全能の神であるかのような錯覚を起こしやすくなっているといえないだろうか。

 「どうして人を殺してはいけないんですか?」という問いにわざわざ答えなくてはならないこと自体、おかしいことだ。共同体としての自然本能的なルールが見失われてきているということだろうか。

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2008年5月 4日 (日)

興味がつきない「脳と意識」

 前回とりあげた「存在論」もたいへん興味をひかれる話題。専門的なことはもちろんわからないが、概要くらいは知っておきたいと常々思っている。そこでは究極的に小さな世界を考えることが、究極的に大きな世界を考えることに直結している姿をみることができる。

 それとともに興味がつきないのが物質とそこから発生するとされる意識。物質と精神。この両者、それぞれが確かにあるということについては疑う余地がないのに、それぞれを結びつける証拠はいまもって誰ひとり見つけられていない人類最大の謎のひとつである。それの証明がなされていないところに、スピリチュアリズムや宗教(神)が入り込む余地があるといえるかもしれない。

 ここでひとつ素朴な疑問。意識や意志といったものは人間にはあるとわかっているけれど、では犬や猫には?コウモリには?魚には?貝には?ミジンコには?これらはいちおう自律運動をしている動物であるが、では草木など植物には?無い?本当に?なぜ無いといえるだろうか?ゾウリムシやマリモには無い?

 人間における意識や意志についてさえよくわかっていないのに、植物にあるかなんて聞かれても困ってしまうかもしれないが、あえて楽しみを増やすために考えるのだが、本当は植物にもバリバリ意識があるんじゃないだろうか!?そんなはずないだろう!だいいち脳がないんだから意識が生まれるはずがない!…そういわれればみもふたもない。

 そんな知的好奇心を充たしたいと読みはじめたベストセラー『生物と無生物のあいだ』だったが、後半に差し掛かってピースの話が出てきたあたりで挫折しそうになっているオレ。読んだ人の感想を聞かせてもらいたいと思うんだが。

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2008年5月 3日 (土)

存在論(素朴な存在論編)

 われわれの眼前に広がる草木、花、石ころ、青空、海、あるいはビルディングから缶コーヒー、そしてわれわれ自身。およそわれわれが認識し得る限りでの存在物。簡単にいえば「もの」(「ものごと」の「もの」の方を指す)。いったいその「もの」というのは何なんだ?以下はオレの覚え書き。

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 素朴に考えると、「もの」は「そのもの自体」「もろもろの性質」とに分けられよう。

 性質というのは、たとえば色つや、におい、硬さ、重さ、温かさや湿り気、粘性、それから、形や大きさなどの形状。手ざわり感でのサラサラやザラザラとかはいちおう形状に入るとして。あとは磁性や帯電性。あとは、、、?ま、よく考えれば重複するものもあるかもしれないが。

 これら性質とされるものに対して、それとは別にそれらの性質を有している当の「もの自体」がある!と考えられる。すなわち、たとえば赤い○○、くさい○○、硬い○○、重い○○、熱い○○、ネバネバした○○、四角い○○、ヌルヌルした○○、触るとビリっとくる○○。

 この○○!この「○○」というのは一体なんだ?

 ○○から諸性質を取り去っていくと、、、?色が無いとすると透明なわけだから見えない。温度も無いとすると、、、?というか形や大きさも無いとなるともうすでになにも無いということになってしまう。なにも無いということは、○○なんて考えることすらできなくなるわけだ。でも、赤い○○だとか硬い○○だとか四角い○○だとか言われるくらいだから、やはり○○は○○として有ると思うんだが…。つまり、赤いとか硬いとか四角いといった性質を具備したなんらかの本体、あるいは基盤になるものという意味をこめて「基体」というものが有るはずでは…?

 いや、その「○○」(基体)なるものは諸々の性質と不可分一体のものだ!ということかもしれない。そのもの自体とそれの性質とをぜったいに切り離しては考えられないということ。ふむふむなるほど「それら」は切り離せないものか。でも「それら」というからには、少なくとも2つのものがあることを想定しているということになろう。そしてその一方は性質であって、もう一方が結局は○○というわけだ。

 なんか袋小路に迷い込んでしまいそうだけど、ここでふたつの考え方が思い浮ぶ。ひとつは、諸性質と○○とは不可分一体だという意味は「諸性質=○○」だということ。だから「もの」とはまさに諸性質そのものを指しているのだという考え方。もうひとつは、諸性質はどれも基本的にはわれわれ人間がわれわれの感覚器官をとおして得られるもの(知覚可能なもの)であり、われわれは知覚できるもの以外はそもそも知りようがないのだから○○については残念ながらわれわれは考えることをやめるしかないのだ、という考え方。

 さて、ひとつめの「諸性質=○○」について。これはわれわれのまわりのあらゆる「もの」は云わば諸性質からできているということだ。いま目の前にある「これ」は、赤色であり、硬質であり、重く、四角である…と。でもどうもそれは違うようだ。性質というのは文法でいえば形容詞みたいなもので、なにかについて(補足的に)言い表すためにある一般的な概念だ。たとえば赤色というのは、個別的な「或るもの」だけに用いられるわけではなく、ほかにも赤色と表現できる「もの」はいくらでもある。だから赤色は一般的な概念だということであり、ある○○を即性質というには無理があるということになる。よってこの説は破綻し、結局は諸性質とそのもの自体とに分化せざるを得なくなる。

 ふたつめの考え方はわかりにくいがこうだ。たとえば色つやはわれわれの視覚がとらえるものだ。同様ににおいは嗅覚、温かさや湿り気、粘性、手ざわり感などはもちろん触覚によるもの。硬さとか重さ、大きさといったものは硬度計や重量計やものさしなどで数値化することができるが、それらの数値は所詮はわれわれ人間が任意に決めた基準に照らして得られるもので、数値化しようとしまいと原理的にはわれわれが手で突っついたり手に持ったりしたときに「硬い-柔らかい」「重い-軽い」と感じるまたは判断するのと変わりない。われわれが他のものとの比較によって感じる相対的なものだ。そして硬さや重さ、大きさといったものは過去に触覚や視覚によって得られたものと現在のそれとの比較でしかない。形にしてもやはり触覚や視覚から得られた情報に基づいている。つまるところわれわれの感覚器官がとらえたものの直接的な感覚や過去の想起による以外に「もの」を規定できる材料はないということだ。なお、今回はあくまで素朴な存在論について考えているので、現代物理学が明らかにしている知見について言及するのは極力避けるが、最新の観測機器などによってわれわれの知覚では直接には感知し得ない「もの」の存在が明らかにされている例について触れてみたい。たとえば原子であるとか、そこになにも存在していないと思われていたところにある暗黒物質といったものがわれわれの眼前に示されているわけだが、それらはわれわれの自然な能力の限界をはるかに超えた実在物であるとはいえ、最新機器というものを通して最終的にはわれわれの知覚の限界内に立ち現われたものであるという意味で、いうなればわれわれの知覚が補足されたもの、つまりはわれわれの知覚の延長上にあるといえるものだ。ということで、いま考察しているふたつめの考え方について次のように結論付けることができよう。最初に措定された「もの」における諸性質とそのもの自体という二重性についてわれわれが語ることができるのは、われわれ人間の感覚器官をとおして知覚できる範囲内のもの(色つや、硬さ、重さ……)のみであり、それ以上のなにものか(つまり○○という基体)などというものは決して知覚し認識することが不可能なのだから考えることをやめるしかない!と。

 こうして素朴な存在論的に考えた「もの」というのは、われわれがわれわれの諸感覚器官をとおして知覚できる限りでの諸性質を持ったなにものか(それがなにものであるかはわれわれには語ることができない)、ひょっとするとただ諸性質の集合体でしかないものかもしれないということ。

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 現在、われわれが常識としている存在物の姿はいうまでもなく、「あらゆるものは分子からできている」というもの。もっといえば分子はさらに細かく分けられ最終的には「ひも」の変形体だという説、さらにはそこに時空が関係し、また多次元という存在まで想定されているが、それらについてはあらためて。

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2007年5月 8日 (火)

主語が無いってあり得る?

 とりあえず言っとくけど、「普通」の人には読む価値はない文章なんで、後悔しても文句言わないでください…とわざわざ前置きする配慮!(^^;

 意識、とりわけ<私>とか自我とかを考えてみるとき、ふと不安におそわれる。

 いまにも襲いかかってきそうな野犬と対面したときのような不安ではなく、なんらかの死を予感させるような「恐怖体験」でもなく、またはある瞬間にふと世界からいっさいの「意味」が消失して言いようのない疎外感におそわれたときのような感覚でもない。

 「いま・ここ」で考えつつ存在していると感じられていた「このオレ」が、実はそんなものは無いんだよ~!と、あっさり否定されてしまうような、そんな不安な感覚だ。

 「意識」とは端的に「知覚」されたり「想起」されたりすることそのものだ、いわば一種の「作用」なのだ!と言われても、そこにはまだ「作用する主体」が想定できる。その主体がたとえば脳自体だと言われても、「知覚」とか「想起」とかを物質である脳細胞で説明するのは変だ!と反論できるから、やっぱり何らかの非物質的な主体を持ち出す余地がある。(追記5/12:上の文章おかしいわ!修正→「意識」とは「知覚」したり「想起」したりすることそのものだ<以下略>)

 おびただしい数のニューロンの非常に複雑で動的(ダイナミック)な運動に「伴って」立ち現れる像を「意識」と呼んだとしても、やはりその像(表象とか映像でもいいけど)を見る主体が想定できる。イメージするなら、脳という建屋の中に住んでる小人がソファに座って大画面液晶テレビの映像を見ているとでもいえる(もちろんこの比喩は使い古された考え方で、そういう小人はさらにあらたな小人を必要とするという終わりのない話に落ち込んでいくけど)。(余談:この小人のことを「ホムンクルス」とか呼ぶようだけど、この間古本屋行ったらそのものズバリのタイトルの漫画を見かけた!「蒼天の拳」読み終わったら買ってみようかなぁ…)

 たとえば、<私>というのもひとつの「概念」に過ぎなくて、ただ意識が<私>を措定したときにだけ<私>(という概念が)想定される(ノエマ的なもの?)だとしても、やはり「概念」である以上は「概念化」する主体が想定されてくる。

 クオリアといわれるもの…「赤」をまさに「赤い色」として質感をもって捉える主体をどうやって排除できるだろう?

 結局、あの「すべてを疑ったとしても、なお疑っているこの私という存在だけが残ってしまう」ような主体を我々は今なお理解できないでいる。

 ならば、いっそのこと「主体」なんてそもそも無い!ということに出来ないか?たとえば文には主語がある。無生物主語は置いといて、とりあえず人間を主語に置くことだけを考えるとして。また、受動態はきちんと能動態に置き換えるものとして。

 「私は~を見る」「彼は~をする」という文で、「私は」とか「彼は」とかが完璧に無いような文ってあり得るだろうか?「aはbである」というものの「aは」が無いって!…

 文は、あるいは論理学はア・プリオリなものだ(普遍妥当なものだ)という前提が実は虚構だったとしたら…馬鹿げている、そしたら数学も真っ赤な嘘だって!?そんなこと言ったらこの世界そのものも否定されてしまうじゃないか…どんな過激な懐疑論者だってそんなこと考えないだろうな。懐疑論者だって「考えている」んだから!!

 いま、このブログを書いてることも実は虚構?虚構という「概念」すらも無い?無いというのだって無い?

 結局、考えれば考えるほど、<私>=「主体」は確実性を帯びてくるだけだ。かといって考えれば考えるほど冒頭に言ったような「不安」もまた大きくなってくる。

 まるで詩を書いてるような気分になってきた。

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2007年5月 6日 (日)

Hegelの意識の弁証法?

 今回の話題は超オタク的内容であって、完全に自分のお勉強の雑感を残す目的であるから、たいていの人とって(興味のない人にも専門の人にも)読む価値の無い話だろうということを断っておきます…のであしからず。

 『脳は空より広いか』で挫折したために、とりあえず前知識としてあくまで軽く「複雑ネットワーク理論」を読んでみようと決意してから○ヶ月!?そのために「複雑系」「進化論」そしてなぜか「ウィトゲンシュタイン」をまずもって知らなきゃ!となって、さらに前置きとして「現象学的」と言われるものの意味を求めて今に至る。

 で、この忙しい身分でフッサールの訳書も読んでられないから…というわけで今読んでるのは、『現象学入門』(竹田青嗣著)。

 この本、他の(フッサール)現象学入門と違ってムチャクチャ分かり易い。どうやら、実際のフッサールの思想からは逸脱している、或いは誤謬を含んでいるとの噂も聞かれ、その通りに理解してしまうのは危険であるらしいが(例えばフッサール研究をしているWebサイトでの研究者の中に著者の存在が無い!)、まぁいいんでない!ここから始めても軌道修正していけばいいんだし…。最初から難しい言葉を並べられて消化不良で終るよりはマシでしょう!

 ところで、あまりにも訳がわからなかったところは「本質直観」の部分。

 竹田氏によれば、フッサールの哲学の原点は、私たちは<主観>の外に出られないのに何故に外の世界の実在を確信できるのか?というところの、その「確信の根拠」を明らかにするという点にあるという。

 フッサールも、デカルトのように唯一疑うことが出来ないのは「疑っているところのこの私」であるという考え方に似た方法で話を進めていくのだが、だからといってフッサールは「この私」という主観だけが本当に実在しているのだと考えているわけではなく、ちゃんと外の世界の実在も確信しているらしい。ただ、私たちは原理的に「この私」の外に飛び出して(言ってみれば神の視点に立って)客観的な世界の実在を認識できるわけではないので、私たちが取り得る唯一の認識の仕方は「独我論」的に「この私」から全てを考えるということだ!という。

 というわけでフッサールは、問題の「私たちのなかにある外界の実在に対する確信の根拠」となっているものすなわち「認識の正当性の源泉」として、「原的な直観」というのが大もとにあるとし、それには「知覚直観」と「本質直観」というふたつがあると考えたらしい。

 で、「知覚直観」がまた何で「認識の正当性」を言い張ることが出来るかといえば、竹田氏によれば、この「知覚」だけは《 つねに意識の自由にならないものとして現われる(p55) 》ので、《 まさしくこの理由によってのみ、<知覚>は、「疑えないもの」、「ほんとうのもの」という確信一般を人間に生じさせる「源泉」だと見なされる(p55) 》という。 (※斜体字は原書では傍点。以下同様)

 まぁそりゃそうなんだろう……(障害のある方は別として)見ようと思わなくても見えちゃうし、聞こうと努力しなくたって聴こえてくるし、よほどの武芸者じゃない限り炭火に手を突っ込めば熱いし!…こういうと高尚な話じゃなくなりそうだけど、、、

 問題は、「原的な直観」のもうひとつの「本質直観」というもの。ちょっと長いが引用させていただくと…

 《 <私>がいま聴いているこの音は、「いまここにあるこのもの」として「偶然的な事実存在」である。ところが、同じこの音は、「音響」とか、「音」一般といわれる「述語要素」を持ち、この側面は「必然的」なものだ。この音の前者の側面をわれわれは「事実」と呼び、後者の側面をその「本質」と呼ぶ。  じつに明快である。それでもわかりにくい読者はこう考えればいい。<私>がある個物を見る(感覚する)。この個物はそれを<私>がいまここで経験しているものとしては「事実」である。ところがこの個物はある言葉で呼ばれうる(「ピアノの音」とか、「電車の音」とか)。この言葉それ自体が含む普遍的規定性、それが「本質」であると。  要するに現象学でいう「本質」とは、言葉(それによって形成されるなんらかの理念)の意味のことだと考えていい(p58-59) 》

 ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド~♪ という個々の音を聞きつつ、それと同時に私たちは「音」という<概念>あるいは<意味>(=<理念>!?)を直観している…ってわけ??

 《 物の<知覚>と物の<意味>は、ふつう考えられているように実在するものと抽象的なものという分け方では捉えられないことがわかる。この二者は、いずれも意識の自由を超えたものとして意識に「疑えないもの」の確信を与える働きをするのである(p71) 》

 などなど、図や表を使ったりして説明してくれているんだけど、どうもいまいち納得し難い…。しかもこの<概念>すなわち「本質」なるものは、何度か経験していく中で形作られてくるものだと、、、それって「原的」に与えられるものといえるのかなぁ???

 余談だけど昔、仏文科の友人が丸山圭三郎大先生の講義を聞いてオレたちに熱く語っていた…「はじめに言葉ありき!」だと。「言葉がないところには何も存在しないんだ!」それに対してオレは「何ばかなことを言ってるんだ!在るものは在るに決まってるじゃん!」なんて反論してた…究極的には世界観の違いと言えるかもしれないけど、存在論とか認識論とかがゴッチャになってたのかもしれない。

 ともあれ、竹田式(?)フッサール理解に限界を感じてきた今日この頃…もう少し我慢して読んでみよう。

 あぁ~~~、そういえば、今日の主題はそうじゃないじゃん!!

 竹田本の中で「本質直観」以上に疑問だったのは、ヘーゲルの意識の発展の仕方についての部分であった!!(p84-87)

 竹田氏によると、ヘーゲルは人間の<意識>はふたつの契機を持っているという。直接的に対象に向かっている<意識>と、それを上から客観的に(いわば第三者的に)眺めている<意識>だと。前者を「第一視線」、後者を「第二視線」と呼んでいる。その「第一視線」を内に含んだ「第二視線」がそのうち「第一視線」と化して、それをさらに見つめる高次の「第二視線」が生じる。こうして<意識>は「弁証法的運動として」より高次の<意識>へと発展していき、ついには「絶対知」へとたどりつくのだ!

 なるほど図式としてとても分かり易い!!

 でも……よくわかんない!

 よくわかんないけど、何かロマンに欠ける気がする。

 たとえば、<意識>は対象を見る!そして、対象との(徹底した)関わりの中にすでにより高次の認識を導く契機が含まれている。見るという行為そのものを通して自分自身の「見方」を変化(破棄と上昇)させていく「意識の自己運動」……といったようなダイナミズム感がヘーゲル弁証法には無いだろうか?

 ちょうどさっきNHKの「サイエンスZERO」を観たけど、すごいね人間って!「見えない」のに確かに「在る」ことを確信している「暗黒物質」!見えないけど無いと説明がつかないもの、まだその「姿」が確認されていないのに理屈で考えると必ず「実在」しなきゃならないんだって!

 それを見ようとして様々な「道具」が開発され、観測が進められている。大昔の人間は肉眼で夜空の星を眺めていた。ガリレオなんかが天体望遠鏡を作ってより詳しく観察した。そして今は「陽子加速器」でミニチュア版ビックバンを起こしちゃおうという。この「道具」の発展の歴史はそれだけを見ていくとまさに「見られる対象」との関係における「見るもの」の自己発展の歴史という感じがする。素人が言ってなんなんだけど、これは言ってみれば人間の認識の発展史じゃないのかなぁ!?

 ちょっと強引なこじつけだったかもしれないけど、少なくともオレ的にはヘーゲル弁証法は単なる「自己客体化の連続」という図式とは言えないんじゃないかと思うのだけど…。

 さて、明日(というか今日)は金色週間最終日!ゴールデンウィーク、、、いい加減忙しい日々だったけど、本日の関東は雨みたいだから、みなさん最後の日はうちでのんびり過ごしてくださいよぉ!

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