2008年6月16日 (月)

スピリチュアルブームだそうだ

 この前、NHKクローズアップ現代で今スピリチュアルブームだってことやってた。録画してたのを今日になって見た。

 スピリチュアルについてはずっと前にブログに書いたっけ( http://oreteki2.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/tot_d836.html )。

 この手の本でいちばんしっかり読んだのは『生きがいの創造』(飯田史彦著・PHP文庫)。江原さんの本では『人はなぜ生まれ いかに生きるのか』(ハート出版)と『あの世の話』(佐藤愛子共著・文春文庫)くらいだけど。外人では『前世療法』(ブライアン・ワイズ著・PHP文庫)。あとは出版社勤めの妹が手がけた本ということで「ヒプノセラピー・退行催眠」についての本(題名他忘れた)。一番最近では香山リカ先生の『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』(幻冬舎新書)。こうしてみると結構読んでるのかな、、、

 前世だとか死後の世界だとか霊とかは信じてない。というか、信じたい気持ちはあるけど信じられない。「テレビの力」って番組でよく透視能力者とかいう人が出てたけど、もしあの人たちがことごとく犯人を突き止めていたら少しは信じたかもしれない。

 信じさせてほしいんだよ。信じさせてくれる方法は簡単なこと。江原さんあたりが何でもいいから未解決の事件を一発で解決してくれればいい。それを1、2回やってくれたらたぶん信じようと思うだろう。

 この世界は本当のところはどうなのか?ってことは、結局誰にもわからないわけだ。神はいるのか、いないのか?この世は結局すべて物質に還元できるのか、それとも霊的とか精神的とかいう世界が存在しているのか?唯物論にしろ観念論にしろ、最終的にはどちらの世界観を「信じるか」ということなんだと思う。要するに誰もがみな何かを「信じてる」ということだけが確かなことなんだ。信念だとか信仰心だとか…信じる強さには違いがあっても、「信じてる」という点では同等なんだ。もっとも態度保留という立場を明確に選択してる人もいるけれど(オレもそう)、、、

 はぁ、なんか、、、こんな話題はっきり言ってどうでもいいんだけど。

 とりあえず、霊が見えるとか霊と話が出来るという人にぜひ聞いてみたいのは、霊ってのはやっぱり3次元的に見えるんでしょうかね??ってことかな。今、理論物理学(宇宙論)なんかで盛んに言われているのが5次元だとか11次元の世界なんだけど、そもそも人間の視覚で3次元以上の次元って認識することは出来ないよね。数学的にはそういうのもアリなんだそうだけど、ともかく、そういう最新の科学的知見なんかを「すっとばして」あくまで人間に経験可能なフレームに依拠しつつ、いともたやすく霊が見えるなんていうことが許せない!想像するのが可能な霊的な世界よりも、想像すら出来ないような宇宙の姿の方がよっぽど神秘的だって。

 それはそうと、霊がどうのということがいいかどうかは別にして、評価できる点は、スピリチュアルによって実際に苦しんでる人が救われてるということだね。この前の通り魔殺人でもそうだけど、まったく理不尽なかたちで命を奪われた人の遺族にとって、たんにそういう事実がありましたでは済まされない。スピリチュアルはそこに「意味」を与えてくれるんだ。亡くなった人についてだけじゃなく、残されて悲しみにくれる人たちにとってもちゃんと「意味」を与えてくれる。どんな悲しみでも理性的に乗り越えられる人ならいいけれど、必ずしもそういう人ばかりじゃない。愛する人を失ったときの悲しみはおそらく人間に普遍的なものだろうから。仏教でも人間の8つある基本的な苦悩のひとつとして「愛別離苦」というものがある。宗教がそれぞれに持つそうした悲しみを乗り越える方法は人類が「発明」した偉大な知恵だと思う。スピリチュアルがとる方法もそういうもののひとつだと考えれば肯定するのも悪くないかもしれない。

 でもあれだね、人の死に関することは非常にデリケートな問題なんで、うかつにどーのと言えないな。

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2007年7月24日 (火)

結婚なんてしたくない

 父が軽ワゴン車を買って乗りまくってる。母の形見の乗用車があるのになんで軽ワゴン?二台あったって無駄じゃん!オレら子どもたちが非難してもお構いなし。

 なんで軽ワゴンを欲しがる?なんでこだわる?

 父に聞いてみた、、、

 「お母さんと話してたんだ。そのうち、、、体が丈夫なうちに軽ワゴンを改造してキャンピングカーみたいにして、二人でのんびり日本一周の旅でもしようと。ま、結局、実現しなかったけどな」

 父は、いつか母と二人きりでゆっくり旅でもして余生を楽しもうと考えてたらしい。

 父は、、、軽ワゴンに乗りながらいつも母をとなりに乗せているのだろうか。

 そのワゴン車に昨日CDデッキを取り付けた。それで今、父の好きな石原裕次郎や五木ひろしなどのCDを作成し終えた。明日の朝、さりげなく父に渡そう。

 「ちゃんとCD聞けるかな?」…ためしに再生してみた。

 子どもの頃、よく両親に連れられて旅行に行ったもんだ。その時かならず流れていたのが演歌。どこか懐かしい感じがする。

 父だけじゃない、母もよく聞いてたっけ。母も裕次郎が大好きだったっけ。

 う、、、これはまずいかな?こんなの車で聞いてたら父も母のことばかり思い出してしまって、かえって辛くなるんじゃないか??

 

 オレはまだ母の仏壇に手を合わせられない。母のことを思い出すだけできっと苦しくなって涙が出てきてしまうだろうから。

 父は毎晩、欠かさずに線香をたいているようだ。

 何も語らず、もくもくと生きている。父は、、、何を思う?

 父は何も語らない。けど、勝手な想像かもしれないけど、とてもツライに違いない。ずっと何十年も二人で働きとおし、子どもを育て、もう少しで、やっとひと息ついて、二人でゆっくり人生を楽しめるところだったのに。

 ひとりワゴン車に乗る父。

 そこに、、、思い出がよみがえってくるような演歌のCDがあっていいのだろうか?

 父の気持ちを考えると胸が痛む。

 これから二人で、、、これからやっとゆっくり第二の人生を、、、なのに、、、父ひとり。

 父ひとり、、、

 ひとり、、、

 

 こんな思いをするなんて、、、

 結婚なんてしたくない、、、そう思った。

 でも、最近とてもいい気分になれた。

 「椿山課長の七日間」という映画のDVDを借りて観た。

 西田敏行、伊藤美咲主演。

 突然死んだ課長、気がつくとそこは下界(この世)と天国(あの世)との中間地点。そこで導き役の天使?から自分の死を知らされる。ところで、特別に許された場合に限って初七日までの間、別の人間として下界に戻ることが出来るらしい。その場にいた何十人の「死にたてほやほや」の人たちの中から、西田扮する椿山課長他2名が特別に下界に戻ることを許された。

 物語はこうして始まる。内容はとても感動的なものだったが、ここではネタばれになるから書かないけど、何がとくに良かったかといえば、この下界と天国との中間点でのやりとり。あぁ、もしこれが本当のことだとしたら、母はすばらしい天国の生活を送ってるのだろうと思えた。そう思うと気持ちがとても楽になった。もしかしたら初七日の間、オレたちの知らない人間の姿になってすぐ近くにいたのかもしれない!

 信仰心のないオレだけど、ちょっとだけ信じてみたら、すごくいい気分になった!ちょっとは母の仏壇の前に立てるかもしれないと思えた。

 今こうして書きながらこの映画のことを思い出してたら、バックに流れている裕次郎の歌も、悲しみを誘うものではないと感じるようになってきた。天国で母もお気に入りかもしれないなと思えてきた。

 やっぱり父に渡そう。父がどういう気持ちになるかはわからないが。

 やっぱり、、、結婚って、、、愛する人がいる人生って、いいかもしれない…かも

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2007年5月14日 (月)

コースター事故

 ご冥福をお祈りします。

 楽しいはずの遊園地で、、、

 愛する人を失った家族、友人の心の痛みがどれ程のものなのか

 その気持ちを思うと、とても胸が痛い。

 母の日は、オレの母の月命日だった。もう4ヵ月。いまだに母の仏壇に手を合わせられないでいる。死を認めたくない。母のことが少しでも頭をよぎると、すぐにその思いを消し去ってしまう。母の写真が目に入ると、いつも「このばかやろう」と心の中で叫んでしまう。「なんで死んじゃうんだ!」と母を責める。

 スーパーに買い物に行ったら、入口のところにカーネーションが置いてあった。母の日のプレゼントにどうぞ!と。「お母さん、ありがとう」感謝の気持ちをこめて贈りましょうと。

 贈りましょうっていったって、誰に贈ればいい?何処に置くの?仏壇の片すみにでも飾る?

 仏壇に手を合わせてどうなる?線香をたいてどうなる?カーネーションを飾ってどうなる?

 見たいのは母の笑顔。聞きたいのは母の声。

 祈れば母が喜ぶ?花を飾れば母が喜ぶ?そんなのどうしてわかる?そんなの……ただ自分をなぐさめてるに過ぎない。そう、すべては生きている自分たちのどうしようもなくて、やりきれなくて、苦しくて、虚しい気持ちを救うため。

 ダメなんだ。母本人がいなけりゃ意味ないんだ。本人の顔が直接見えないと、本人の声を直接聞けないと、、、意味ないんだ。

 ただ、、、ただ生きてればいい。ただ生きていてくれさえすればそれだけでいい。

 どんな立派な葬式も、どんな立派な仏壇も、どんな立派なお墓も、どんな立派な法名も、直接本人に届かなければ意味がない!!!

 どうしようもなく大事なことは、このうえもなく大切なことは、

   生きているということ

 生きていてこそ、ケンカもできる

 生きていてこそ、わがままも言える

 生きていてこそ、笑いあえる

 生きていてこそ、悩みあえる

 生きていてこそ、、、、

 いつになったら、仏壇の前に座れるのだろう

 いつになったら、写真を見つめられるのだろう

 いつになったら、「いま幸せですか」と聞けるだろう

 いつになったら、、、「ありがとう」と言えるだろう

 いつになったら、、、死を認め、受入れられるのだろう

 愛する人を失った家族、友人の心の痛みがどれ程のものなのか

 その気持ちを思うと、とても胸が痛い。

 まったくの他人だけど、心からご冥福をお祈りします。

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2007年3月25日 (日)

千の風になって

a thousand winds

Do not stand at my grave and weep;

I am not there, I do not sleep.

I am a thousand winds that blow.

I am the diamond glints on snow.

I am the sunlight on ripened grain.

I am the gentle autumn's rain.

When you awaken in the morning's hush,

I am the swift uplifting rush

Of quiet birds in circled flight.

I am the soft stars that shine at night.

Do not stand at my grave and cry;

I am not there, I did not die.

 春の強い風も、あなたがそこにいると思えばつらくない。

 冷たい雨も、あなたがそこにいると思えば心地よい。

 小鳥がさえずれば、あなたが歌っているようだ。

 そして、暖かいお日さまは、あなたに抱かれているようだ。

 花が大好きだったあなたは、雨になって花々に栄養を与え、

 お日さまになって花を見つめ、

 蝶々になって花を守っているんですね。

 星の輝きであなたの姿を感じ、

 風に乗ったあなたの香りを感じ、

 小鳥の歌声であなたの声を聞き、

 お日さまのもとで全身であなたのあたたかさを感じます。

 死んでしまったわけじゃない

 ただ、ちょっとだけ形をかえただけ

 

 神でも仏でも守護霊でもない。

 この歌だけが、心から信じられる唯一のものです。

 本当に大切なもの、本当の幸せって、

 とっても身近にあるものなんだって

 気付かせてくれてありがとう。

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2007年2月10日 (土)

私の実体なるもの

Deathalive

私の境界とはどこにある?

世界は線?

世界は色?

世界は音?

世界は物質?

光が感じられなくて、音が感じられなくて、匂いが感じられなくて、味が感じられなくて、モノに触れても感じられなくて、、、、

それでも私は在る?

生きているのと死んでいるのとの境界すらわからなかったら?

それでも私は在る?

在るというのも無いというのもわからなかったら?

点滴の栄養だけで、心臓が動いていて、脳も死んでなくて、でも何も感じることが出来なくて、でももしかしたら意識があるかもしれない。

生きてるのか死んでるのか?まわりの人はわからない。

私を私たらしめるのは、私を想定する自己意識。

意識はつねに、何かに向かっているところの意識だ。何ものかについての意識としてしか、意識は意識たりえない。

対象意識というけど、対象がない意識がないなら、対象意識なんていう必要ない。

自己意識は……自己を対象としている意識だ。

私を私として認識できるのは、自己意識の連続性が保証されているからだ。何によってか?記憶によって。しかも長期記憶が不可欠。

もし、非常に短い時間しか記憶できなかったら、例えば10秒しか記憶が持たなかったら、果たして……10秒間、意識が自己を反省的に意識し続けられたら、かろうじて私というものを認識できるかもしれない。

自己を反省的に意識するというのは、何かを意識しているということを意識するということで、まぁメタ意識とでも呼ぶのかもしれない。

しかし、意識は同時に2つ以上のことを意識することはできないようだ。だから、何かを意識していることを意識するというのは、本来は瞬間的に意識の対象を切り替えているということだろう。だとすれば、メタ意識なんてものはなくて、ただ、ちょっと前の記憶を呼び起こしているだけだといえるだろう。ここでも記憶が不可欠となってくる。この場合は、超短期記憶でもいいわけだが、それでもある程度の記憶期間が無いとやはりつらい。意識していたことを意識した、ということを忘れてしまっては、自己の同一性が認識できないから。

どうもしっくりこない話になっているなぁと感じるのは、いくつかの重要な事柄を自明のこととして詳しく検証しないでいるからだろう。認識とは何かを定義しないまま、認識といっていること。そして、そもそも意識の発生について語っていないということ。これらを抜きに論ずるのはズルイことだな。

意識はどうやって発生するか?軸策の先端のシナプスで、イオン分子等が放出・受容されて、電気的な流れが生じることで意識が生じるとかだった気がするが(すっかり忘れてしまった…)、当然ながらそんな物理現象を並べたところで、意識を説明したことにはならない。

結局、意識は自明のこととして考えるしかない。不確実性原理じゃないけど、意識活動で意識活動を説明するのは今のところ出来ないということで。

ともあれ、そんな曖昧な意識によって意識される自己=私というのは、何とも脆い基盤の上に立っているように思えてくる。

私の境界とは何か?

「色即是空」である。要するに、そんなものは無い!

無い、無い、無い、「無色無受想行識(むしきむじゅそうぎょうしき)」と!

まったくナイナイ尽くし!お釈迦様は大したもんだ。

だが、すべてナイナイと言えたら、おそらく人間である必要もなくなるかもしれない。すべて在る在ると言い張るところにこそ人間の人間らしさがあるのかもしれない。

苦悩があるのはつらい。でも、苦悩が無ければ人間でもなくなるわけだから、苦悩やめますか、人間やめますか!?ということだ。

人間、死ぬ気になれば何でも出来る!という。そういうことだ。

昔、「覚せい剤やめますか?それとも、人間やめますか?」とかいう素晴らしいコピーがあったけど、何と深い言葉だろう!

途中かなり重い問題を投げかけておきながら、これで終わりというのはたいへん無責任だとは思うけど、いつものようにオチのない話ですみません。

次回は、なんと先日オレが実際に体験した「心霊現象」について語る予定。

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2007年1月11日 (木)

死を待つつらさ

 どういう「死にかた」がつらいだろう?また、その「つらい」っていうのは、誰にとっての感情だろう?

 たとえば、ある日突然、なんの前触れもなく事故に遭って死んでしまう人もいる。この場合、当人は自分の死の瞬間をどういう気持ちで生きただろう?もしかしたら死を意識することすらなくこの世を去ったかもしれない。この突然の死の場合、「つらい」のは基本的に後に残った者だろう。親しい者(夫婦、親、兄弟、子ども、親しい友人など)が死んでしまったという悲しみは、もちろん経験した者でなければわからない。その悲しみ、苦しみはとても言葉に出来るものではない。後に残った者にとって「つらい」こと…。

 たとえば、不治の病。しかも余命数ヶ月がほぼ確定しているような場合がある。死ぬことが「確定している」なんて、そんなことあっていいのだろうか?でも現実だ。奇跡はめったなことでは起こらないものだから。さて、この場合、「つらい」のは誰?それを知ってるのが本人以外の場合、前述のように親しい者はつらく苦しい。もし本人がその事実を知らないとしたら?本人はそのうち直ると信じているとしたら。病気のためのつらさはあるにしても、自分が着実に死に向かっているという考えがなければ、その点でのつらさはないかもしれない。それは本人にとってはよいことなのかもしれない。死の恐怖を感じないで済むのだから。でも告知がよいこととされる考え方もある。本人の人生なんだから、本人が自分の人生の主役であるべきだし、生きているうちにやっておきたいこともあるだろうからと。また、死と正面から向き合うなかで、死の恐怖を乗り越える境地に達する可能性もあるとも考えられる。本人に知らせるべきか知らせないでおくべきか……とても難しい問題だ。

 ところで、上の話は「知らせるべきか否か」と言っている時点で、それは本人以外の者からの視点だ。いや、「もし本人がその事実を知らないとしたら?」と言っているのだから本人の視点も含んでいるじゃないか!と言われそうだ。たしかに微妙なところだ。でも、大抵の場合、こういう文章の書き方をしている時は、やはり本人以外の者の視点なのだと思う。それは「本人」という言い方をしている点に表れている。つまり「本人」と言ってる時点で第三者的な視点を暗黙のうちに持っているわけだ。

 そこで、次に視点を「自分」に置いて考えてみよう。今度は「本人」じゃなくて「自分」だ!今までこの文章を読んできた「あなた」。これから視点をずーっと近づけて自分にまで引き寄せてみて欲しい。「もし、このオレが(この私が)、ある病気のためにほぼ確実に数ヶ月しか生きられないと知らされたとしたら?」どういう気持ちになる??悲嘆して悲しみに暮れるか?死を超越するような気持ちを持てるか?それともあくまで最後まであきらめないで抵抗を試みるか?おそらく想像するのはあまりにも難しいことだろうけど。つらいだろう。落ち込むだろう。投げやりにもなるだろう。いいようがないくらい怖いだろう。なにしろ、死というものの先は考えられないのだ。人生が川の流れだとしたら、その先をたどっていくと死というものがあって、その先はまったく川が消えてしまうのだ。オレたちは「無」という概念を知っているが、「無」は言うほどわかりやすいものではない。「無」ということは「無い」ということだ…って、何を言ってるんだ!?いやいや、説明できれば苦労しないさ。川の流れがあって、あるところを境に、その先は「無い」のだ!ただの暗闇を想像してはいけない。暗闇という空間すら存在してはならないのだ。暗闇もない!ということだ。同様に時間も無いわけで……、、、、、、目の前の机の上にペンが無い。それは想像できる。ペンが存在することの否定だから、存在するという概念があることが前提となるし、存在するということは即ち存在しないという概念が前提であって……って、単に概念の循環じゃないか。在ることと無いこと、有と無、相互にまったく正反対の概念であって、しかもお互いに相手がなければならないのであって、つまり究極に対立するものでありつつ、究極にひとつのものであるという、これぞまさしく否定の否定!弁証法的昇華によってたどり着く先は?「絶対者」か?なんて話が飛んでしまっているが、要するに死んだ先は「無」というが、「無」とは実は存在することとセットなわけで、その流れで言えば、もし「死」がなければ「生きてる」こともないということだ!もしオレたちが「無」を想像できないというのなら、同様に実は「ある」ということも想像できないはずなのだ。もし「ある」すなわち「生きている」ことを肯定するならば同様に「死ぬ」ということも肯定しないと不公平なのだ!(もちろんどちらも否定してもよいが)……とはいえ、実際問題、死が迫っていると言われたら怖い、つらい、くるしい、落ち込む、とにかく「ヤダ~!!」だ。でも、でもそれでも「受け入れる」しかないのだ。先人は教えている。「色即是空」。「色」つまり「生きている」ことだけしか認めない(一方に執着する)からこそつらく、苦しいのだと。そんなこと言われたって、出家した人ならいざ知らず、やはり一般ピープルにそんな悟りの境地を説かれたって無理がある。   ということで、では実際に自分が「その立場」に立ったとしたらどうなのか?心配はない。その時になったら人間はきっと、今までのどんな時よりも最も光り輝くのだ。もっとも人生の輝きを、人生の素晴らしさを、生きていることの素晴らしさを実感するのだ。そして「感謝」の気持ちが自動的に出てくるのだ。本当に、心の底から「感謝」する!これこそが真実だ!オレのじいちゃんは亡くなる前日、見舞いに来てくれた人ひとりひとりに手を合わせて、ひたすらこう言っていた…「ありがとう。ありがとう」。よく死の瞬間、人は見たこともないような光を見て、やがてそれに包まれると言う(それって、生き返った人の証言だろ~!あてになるのか?と突っ込まないで)。あの光って、「神」とか「偉大なあるもの」とか色々言われるけど、その光って、オレ的には「人生」すなわち「存在」そのものだと思う。「無」を知らない、故に「ある」ことも知らないわれわれが最後の最後にそれを知ることができるのだ。それってこのうえない贅沢じゃないか!そう、死と生の境にきて人は最高の贅沢を味わうことができるというわけだ。決して悲しむべきことじゃないじゃないか。むしろうらやましい限りだ。えー、ホントなのそれ?ホントなのって、そんなのわかるわけない!すべてはフィクションだよ。哲学者だって宗教者だって、みんな好きなように語っているじゃないか!もしかしたら神様に聞いたのかもしれない。守護霊様に聞いたのかもしれない。オレは宗教者のような自信はぜんぜんないし。病気の人の立場に立ったとき、本当に感謝の気持ちを持てるだろうかというのも疑問だ。だって病気なんだから痛くて、苦しいのがずっと続くかもしれない。それから、死ぬ瞬間に光を見られるというのは、今まで他人を傷つけ苦しめてきた悪人でもそうだと言われると、まじめに正直に生きてきた人に対して不公平で、あまりに理不尽じゃないかと。

 今日のまとめ

 死によって本当につらいのは、「残った者」だ。目の前で愛する人が死んでいく時、あぁ可哀想だと思う。けれども、本当はその当人よりも残った者である自分自身がつらいということなのだ。

 これまで「残った者」と言ってきた。「残った者」というのは、結果として残ってしまったから「残った者」なんだけど、たとえば自殺をする人に言っておきたい。あなたから見たら「残された人」となる周りの親しい人たちはものすごくつらい目に遭うのだよ。それでもやっぱり自分自身が一番つらいんだから仕方がないだろうというなら、まぁ仕方ないか。

 追伸

 「守護霊がいる」と言ってる人に質問。「いる」って言葉、そう簡単に使わないで。というか、存在することと存在しないこととをちゃんと説明して。とくに安易に「実在する」などと本に書いてる人がいるけど、「実在する」っていう言葉、軽い気持ちで使ってない?

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