会津若松の猟奇的殺人 (その2)
さっきTBSの23時のニュースで「酒鬼薔薇聖斗事件」についてやっていた。なぜ今?会津若松の母親殺し事件がらみか?こういうニュースは視聴者が飛びつき易い。少年が絡む事件。猟奇的ともいえる事件。信じられないような事件。
今回のニュースの内容は被害者の父の「思い」について。内容自体はもちろん重要な問題なので、広く知ってもらう価値があるものだろう。というか、知るべきことだと思う。
今日は別な観点で話してみたい。
次々に起こる「異常」ともいえる犯罪・殺人事件。そういう事件が起こると、待ってましたとばかりメディアが報道を始める。ワイドショーなんかも連日その話題をトップに据える。メディアが競って取り上げ、しかも大々的に取り上げるので、当然視聴者の関心もいやでも高まってくる。
ところで、メディアが取り上げるから人々は関心を高めるのだろうか?それとも、人々がそれについての報道を期待するからメディアが取り上げるのだろうか?
まぁ、それはどっちもどっちなんだろう。
なんで突然そんな話になったかというと、ふと疑問に思ったことがあったからだ。前回のブログでちょっと触れたけど、「信じられない」ような殺人事件が起こると世間ではその話題で「盛り上がり」、そしてよく次のようなことが言われる。
いわく、「いったい世の中どうなっちまったんだぁ!」
いわく、「少年たちに今、何が起こっているんだろう!?」
いま、とくに少年犯罪に絞って話をしてみると、必ず問題にされるのが「コンピューターゲーム」の悪影響だ。すなわち、ゲームの中では平気で「ヒト」を殺してしまう。しかも殺してもリセットすれば簡単に生き返る。さらにヴァーチャル(仮想)世界と現実世界との境界が曖昧になる。こうしたことを多感な時期の青少年が体験することで、人間を含めた世の中に対する見方がおかしくなって、「信じられないような」犯罪を犯す青少年が増えるのだ!…と。
たしかにそういう面はあるだろう。実際にこういうフレーズをたびたび聞かされる、「(誰でもいいから)人を殺してみたかった!」
今回の会津若松事件では「死体を切断してみたかった」と。
だがしかし、実際に「信じられないような」事件を起こしているのは、決して多くの青少年たち(!)ではない。(前回のブログで書いたように)統計が示しているように、殺人事件を起こしている人間は(しかも青少年だけじゃない!)ごくごく少数だ!
「少ないから問題じゃない」と言ってるわけでは当然ない!!たとえ1億人に一人だって大問題には変わりない!
けど、ごく少数の人間の犯罪にもかかわらず、「今の少年たちはどうなってしまったんだ!」みたいな言い方・思考になってしまうのが問題だということ。
ホラーDVDが悪い、猟奇的殺人を扱ったビデオが悪い、あるいはまた殺人を扱うサイトが悪い!と。それらが影響を与えてるのは事実だろう。一部のコンピューターゲームが影響を与えてるのも事実だろう。
だが、それらに安易に犯罪の根拠を求めすぎていないか?それらに責任を押し付けることで、本当に問題を解決できるのか?それらを「除去」すれば犯罪はなくなるか?
一体、どれだけの人が(大人も含めて)それらのDVDを観て、それらのサイトを見て、それらのゲームをしているだろう。
繰り返すけど、それらの影響がないと言ってるわけじゃない。ただそれらに原因を求めすぎて、本質を見誤ることがないかと思うわけだ。
さて、ところで今日は、実はそんな「ありきたり」のことを話したいわけじゃない。ごく一部の者の犯罪をもって少年全体を問題視するのはどうなんだろう!…とか、悪影響を与えるDVDやゲームを一面的に取り上げるのはどうなんだろう!……といった、「ありきたり」な話題を話したいわけじゃない。
次々と起こる「信じられないような」殺人事件そのものや、それについての報道そのものが問題とされる。
だが!!それら殺人事件やその犯人、そして報道を見ている自分自身の心の在りようはどうなんだろう!?いや、これは決して世間の人たち一般に問いかけようとしているわけじゃない。。。このオレ自身のことだ!!あくまでオレ自身はいったいどういう目でそれらのことどもを見ているのだろう??と問うている。
あえて言う。このオレ自身は、それら事件、犯人、メディア報道の内容を、なんらかの期待を持って見てはいないだろうか!?
「信じられないような」…という。「異常な心理」…という。(犯罪者たちの)「非日常性」、「病的性格」などを読み解こうとする。
けれども、そうした事件を並々ならぬ興味を持って見ていることのなかに、実は自分自身の「非日常性」への憧れのような感覚がないか!?
こう言い換えよう、、、退屈な「日常」に飽きていないだろうか?もし「信じられるような」事件しか起こらなかったら、それほどニュースにかじりつくだろうか?
「踊るあほうに、見るあほう」という。
奇異な殺人事件、特殊な犯罪者、メディア報道…これらはいわば「客体」としての「対象」だ。「踊るあほう」側だ。
一方で、それらを見る側は?それはオレ自身のことであり、報道でいえば視聴する者自身のことだ(もっと言えば、事件の被害者と加害者という「あちら側」の当事者に対して、報道する者はいわば「こちら側」になる)。
要するに、見られる側だけを問題にする視点を、ちょっと「引き戻して」見ている側へも視点を向けることも考えてみる必要があるんじゃないか!?ということ。言い換えれば、自分のことはあたかも「蚊帳(かや)の外」みたいに位置づけて、「世の中いったいどうなっちゃったんだ!」と安易に叫ぶ態度を反省してみてはどうだろう?ということ。
ん?今日のオレはどうしちゃったんだ?って…
問題を投げ掛けておいて、なんの自論も示してはいないんだけど…。正直、自分でもどう考えたらいいのか全然わからないわけで…。
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