2007年5月23日 (水)

会津若松の猟奇的殺人 (その2)

 さっきTBSの23時のニュースで「酒鬼薔薇聖斗事件」についてやっていた。なぜ今?会津若松の母親殺し事件がらみか?こういうニュースは視聴者が飛びつき易い。少年が絡む事件。猟奇的ともいえる事件。信じられないような事件。

 今回のニュースの内容は被害者の父の「思い」について。内容自体はもちろん重要な問題なので、広く知ってもらう価値があるものだろう。というか、知るべきことだと思う。

 今日は別な観点で話してみたい。

 次々に起こる「異常」ともいえる犯罪・殺人事件。そういう事件が起こると、待ってましたとばかりメディアが報道を始める。ワイドショーなんかも連日その話題をトップに据える。メディアが競って取り上げ、しかも大々的に取り上げるので、当然視聴者の関心もいやでも高まってくる。

 ところで、メディアが取り上げるから人々は関心を高めるのだろうか?それとも、人々がそれについての報道を期待するからメディアが取り上げるのだろうか?

 まぁ、それはどっちもどっちなんだろう。

 なんで突然そんな話になったかというと、ふと疑問に思ったことがあったからだ。前回のブログでちょっと触れたけど、「信じられない」ような殺人事件が起こると世間ではその話題で「盛り上がり」、そしてよく次のようなことが言われる。

 いわく、「いったい世の中どうなっちまったんだぁ!」

 いわく、「少年たちに今、何が起こっているんだろう!?」

 いま、とくに少年犯罪に絞って話をしてみると、必ず問題にされるのが「コンピューターゲーム」の悪影響だ。すなわち、ゲームの中では平気で「ヒト」を殺してしまう。しかも殺してもリセットすれば簡単に生き返る。さらにヴァーチャル(仮想)世界と現実世界との境界が曖昧になる。こうしたことを多感な時期の青少年が体験することで、人間を含めた世の中に対する見方がおかしくなって、「信じられないような」犯罪を犯す青少年が増えるのだ!…と。

 たしかにそういう面はあるだろう。実際にこういうフレーズをたびたび聞かされる、「(誰でもいいから)人を殺してみたかった!」

 今回の会津若松事件では「死体を切断してみたかった」と。

 だがしかし、実際に「信じられないような」事件を起こしているのは、決して多くの青少年たち(!)ではない。(前回のブログで書いたように)統計が示しているように、殺人事件を起こしている人間は(しかも青少年だけじゃない!)ごくごく少数だ!

 「少ないから問題じゃない」と言ってるわけでは当然ない!!たとえ1億人に一人だって大問題には変わりない!

 けど、ごく少数の人間の犯罪にもかかわらず、「今の少年たちはどうなってしまったんだ!」みたいな言い方・思考になってしまうのが問題だということ。

 ホラーDVDが悪い、猟奇的殺人を扱ったビデオが悪い、あるいはまた殺人を扱うサイトが悪い!と。それらが影響を与えてるのは事実だろう。一部のコンピューターゲームが影響を与えてるのも事実だろう。

 だが、それらに安易に犯罪の根拠を求めすぎていないか?それらに責任を押し付けることで、本当に問題を解決できるのか?それらを「除去」すれば犯罪はなくなるか?

 一体、どれだけの人が(大人も含めて)それらのDVDを観て、それらのサイトを見て、それらのゲームをしているだろう。

 繰り返すけど、それらの影響がないと言ってるわけじゃない。ただそれらに原因を求めすぎて、本質を見誤ることがないかと思うわけだ。

 さて、ところで今日は、実はそんな「ありきたり」のことを話したいわけじゃない。ごく一部の者の犯罪をもって少年全体を問題視するのはどうなんだろう!…とか、悪影響を与えるDVDやゲームを一面的に取り上げるのはどうなんだろう!……といった、「ありきたり」な話題を話したいわけじゃない。

 次々と起こる「信じられないような」殺人事件そのものや、それについての報道そのものが問題とされる。

 だが!!それら殺人事件やその犯人、そして報道を見ている自分自身の心の在りようはどうなんだろう!?いや、これは決して世間の人たち一般に問いかけようとしているわけじゃない。。。このオレ自身のことだ!!あくまでオレ自身はいったいどういう目でそれらのことどもを見ているのだろう??と問うている。

 あえて言う。このオレ自身は、それら事件、犯人、メディア報道の内容を、なんらかの期待を持って見てはいないだろうか!?

 「信じられないような」…という。「異常な心理」…という。(犯罪者たちの)「非日常性」、「病的性格」などを読み解こうとする。

 けれども、そうした事件を並々ならぬ興味を持って見ていることのなかに、実は自分自身の「非日常性」への憧れのような感覚がないか!?

 こう言い換えよう、、、退屈な「日常」に飽きていないだろうか?もし「信じられるような」事件しか起こらなかったら、それほどニュースにかじりつくだろうか?

 「踊るあほうに、見るあほう」という。

 奇異な殺人事件、特殊な犯罪者、メディア報道…これらはいわば「客体」としての「対象」だ。「踊るあほう」側だ。

 一方で、それらを見る側は?それはオレ自身のことであり、報道でいえば視聴する者自身のことだ(もっと言えば、事件の被害者と加害者という「あちら側」の当事者に対して、報道する者はいわば「こちら側」になる)。

 要するに、見られる側だけを問題にする視点を、ちょっと「引き戻して」見ている側へも視点を向けることも考えてみる必要があるんじゃないか!?ということ。言い換えれば、自分のことはあたかも「蚊帳(かや)の外」みたいに位置づけて、「世の中いったいどうなっちゃったんだ!」と安易に叫ぶ態度を反省してみてはどうだろう?ということ。

 ん?今日のオレはどうしちゃったんだ?って…

 問題を投げ掛けておいて、なんの自論も示してはいないんだけど…。正直、自分でもどう考えたらいいのか全然わからないわけで…。

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2007年5月17日 (木)

熊本慈恵病院の理念

 問題となった「赤ちゃんポスト」を設置した熊本の慈恵病院のホームページを見た。アドレスは以下のとおり。

http://www010.upp.so-net.ne.jp/jikei/index.html

 賛否両論があり、いろいろと批判も受けたりしているが、注意すべきは、

 この病院がこのようなものを設置したから今回のような「捨て子」現象が起きたのだ

という一面的な見方はいけないだろうということ。

 子どもを育てられずに「捨てる」という現状がまずあった。

 そして、《尊い命の大切さを伝えるため、慈恵病院では以前より、小・中・高校などへ出掛けていのちの講演会(性教育)、母子訪問や育児サークル等の子育て支援活動を行って》いた。《》内は当該病院webサイトからの引用(以下同)

 この病院では、これまでもそういう赤ちゃんを引き取って面倒をみてきたという経緯がある。

 ドイツに『Baby Klappe(ベビークラッペ)』というものが設置されてると知り、日本の現状を考え、救える命をなんとか救いたいという気持ちから「赤ちゃんポスト」をつくった。ドイツ語のKlappeは、郵便受けなどに付いているパタンと閉まるふたの意。

 ところで当該病院では、《“こうのとりのゆりかご”への赤ちゃんの受け入れはあくまでも「緊急避難」的な措置であり、事前相談こそが母と子、双方を救う道である》というのが基本的な考えであるとする。

 実際、当該病院での赤ちゃん受け入れにあたってのフロー図によれば、「赤ちゃんポスト」と並行して、親に対する相談窓口が設けられているのがわかる。

 詳しい事情などはわからないが、これらを見る限りでは何らかの利害打算にもとづいて行われているわけではないだろう。宗教というもの自体への考え方は別として、このような無償の行為そのものに異を唱えるような資格は誰にとってもないと思う。少なくとも、資本主義的原理を持ち出さなければ(つまり利害・損得という動機付けを持たなければ)実効力のあることが何も出来ないような社会システムの現状よりはよほどマシだと思う。

 「現状追認・追従」的だという批判もちょっとズレてるだろう。それぞれの立場で、自分の出来る範囲のことを実行するということに対して、何も出来ない者が批判するのはおかしいことだ。

 こうした内情、経緯を知った上で、「赤ちゃんポスト」に対して意見するのが筋だと思った。

 もちろん、設置反対者はそうした事情をわかったうえで反対していると思う。オレも反対するからにはそうしたい。

 そのうえで言わせてもらえば、要は「よかれと思ってしたことが裏目に出た」ということになろうか。または、「理想はよいが、現実は必ずしも考えた通りにはならない」ということか。

 再度慈恵病院のサイトから引用させていただくが、ドイツでのベビークラッペの原型として次のような説明がなされている。いわく、《中世ヨーロッパでは、修道院の壁に扉が付いており、親が子供を育てられない場合、赤ちゃんをその扉の中に入れて、預けることができる仕組みになっており、修道院で赤ちゃんを育ててきた歴史があります》と。

 時代が時代だ。封建主義制度にあっては、そうとう社会の格差は大きかったのだろうから、経済的にやむなく赤ちゃんを「捨てる」という行為があったのだろう。といっても当時の人々の価値観がどういうものだったのかは知らないけれど…。

 さらに次の文では、当該病院として想定しているものが何であるかがわかる…《捨てるという事は子供の命をなくす事につながりかねません。しかし安全なところに預けるという行為はわが子を助けたいという母親の切なる気持ちがそこにはあるのではないでしょうか》

 現実は必ずしも理想どおりにはいかないというのは、上のような切なる気持ちを持った(母)親ばかりではない!というところに表れるんじゃないかと思う。

 反対する者が、「捨て子を助長する」というのは、つまりはそうした身勝手な親が「しめた!これはいい!」とばかりに利用することが出てくるということだろう。

 「理想」がまさに「理想」(でしかない)というのは、「理想」のなかで想定されている「理想的な」人間は結局「理想」でしかないという理由によるものだと思う。

 水が低いところへ流れるがごとく、人はより楽な方へ、より安易な道へ進みやすいものだし、例えとしてはやや不適切かもしれないけど「悪貨は良貨を駆逐する」というように、悲しいかな世の中悪い傾向ばかりがはびこるようになってしまうようで…。

 で、結局オレとしては何も結論めいたことは言えないんだけれど、政府などに要望するとすれば、対処療法的なやり方(一病院の個別的取り組み)について好ましいとか好ましくないとか言うだけじゃなく、じゃあ根本療法的にはどうしていくつもりなのかまで踏み込んで検討し発言してもらいたいと思う。

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2007年3月 6日 (火)

私の境界って何?って何?

 前回のブログの話は自分でも恥ずかしくなるほどに首尾一貫しないものだったみたい……。幸いなことに、鋭いコメントを頂いたおかげでそれに気が付いた。さらに、内容云々よりも言い方が分かりにくいことの方が問題だとも思った。

 でもやっぱりここは「開き直って」しまおう!もしブログを読まれて気分が悪くなった場合には、ぜひ自分の感性が正常であることを喜んでもらいたい。

 ひと言だけ。私の境界はどこにある?ってどういうことか。

 「ここまでが私だ!」という場合、どこまで?頭のてっぺん、髪の毛の先から、足の指先までが「私」だろうか?脳から伸びた神経組織に限定するか?それとも骨も皮膚も粘液も臓器も含めるか?じゃあ純正部品が壊れてしまって、他人から移植されたものは?例えば骨髄移植を受けて、そこで作られた免疫細胞が非自己と認識してしまい「私」を攻撃してしまったら?それでも寛容に「私」の仲間に入れてあげる?この指の先の爪の最先端を拡大していったら?分子、原子、原子核、陽子、素粒子、力、ひも!?「私」の周りの空間との境目なんてあるだろうか?

 それとも、脳のどこかで「私」を想定しているもの(自我?)のみを「私」と考えるべきだろうか?心理学者にでも聞くしかないかな…

 または感覚器官が捉えたものはすべて「私」に含めてしまうか?今目の前にあるコーヒーカップの色は、そこに反射したある波長を持った光が目に入ってきて「私」が作り上げた色かもしれない。それは「私」に固有の色かもしれない。ということは、眼前に広がる風景はすべて「私」に固有のものかもしれないのだから。

 時間的にはどうか?過去は…母親の胎内まで遡ればいいか?それとももっと前まで??未来は…人は未来を現在に引き込みながら生きているとも考えられる。あるいは未来に自分を投げ出しながら存在してると言ってもいい。

 というか、そもそもなんでそんなことを気にするの?と言われたら返す言葉もなかったりするけど、、、

 というわけで、私が体験した心霊現象は次回持ち越し確定!

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2006年11月 9日 (木)

いじめてた子をどうする?そしてオレは何なの?

 (あらかじめお断わりしとくと、今日の文章の前半は余談、後半は「いじめ」についてという構成になっております。)

 自殺予告がニュースになった日。オレは職場のみんなに聞いてみた。

 「今度は自殺予告だってよ!どうすりゃいいんだろうな!?」

 「自殺したいならさせればいいじゃないですか。だって自殺したいと言ってるんだから止められないし。だいたいそういう人は大人になってもろくな人間にならないから」

 「てゆーか、なんでそんなにいじめをアツく語ってるの?しょせん他人事じゃん!」

 そうだ、所詮「他人事」なはずだ。なのに何でオレはこうして語ってるんだろう?世の人たちも大半は「自分事」じゃない。学校関係者や文部科学省は仕事だからどうしたって当事者として関わらざるを得ない問題だが、小さい子どものいない家庭やオレのような独身者の一般市民にとっては「他人事」。

 地下鉄サリン事件も、青森でりんごが盗まれた事件も、ホリエもんが裁判受けてることも、病気のために摘出した腎臓を移植した問題も、朝鮮民主主義人民共和国が核実験をやったという問題も、松井がホームランを打ったということも、それらに直接関係がある人やきわめて近い位置にいる人やマスコミ関係の人じゃなければ、とりあえずは「他人事」ということもできる。

 「拉致被害者」たちやその家族のことをかわいそうだと思う。イラクで処刑された香田さんのことはショックだった。何か署名でも回ってきたらぜひとも協力したい!と思う。そう…、同情はするけど、結局は「他人事」。「日本国民はみんな怒ってる!」とか言われても、別にどうだっていいと思ってる人もたくさんいる。

 オレじゃなくとも、いろいろな問題をブログに書いてる人がたくさんいる。「これはけしからん!」、「ここはこうすべきだ!」、「問題の本質はここにある!」等々。

 で?…あんたが叫んで、何がどう変わるの?あなたは何か責任をもってるの?「おまえたちは悪者だ!」って、あなたは誰?正義の味方?神?仏?あっ、学者か?それとも評論家?

 (ちょっと話がズレそうだけど、ついでに女性の一部には嫌悪感を抱く人もいるかもしれない話だけど)例えばの話(ちなみに主人公はS男としよう)……ある男がファイル共有ソフトを使っていたら、おかしなウィルスに感染してしまってパソコン内の情報が流出してしまった。その中には自分の仕事上のマル秘情報が含まれていた、のみならず彼女とのエッチな写真も大量に含まれていた。彼女の画像は実名とともにネット上にばら撒かれ、しかも誰かの手によって彼女の友人たちの集まる掲示板に貼り付けられてしまい、親しい友人たちにも知られてしまった。それだけでは済まなかった。なんと大衆誌がそのことをネタにして報道、ネット上だけでなく広く世間に知れ渡ってしまった。ところで、その話を聞きつけた我がS男がさっそくネット上で検索してみたら問題の写真を発見した。S男は叫んで言った「あぁ、なんてかわいそうなんだ!それにしてもこの彼氏は最悪やなぁ。彼女も無防備だったというか、まぁ自業自得かな。それにしても一番悪いのは掲示板に貼り付けてしまったやつだ!人間じゃねーな。マスコミもマスコミだ。人権侵害も甚だしい!こいつらを裁く法はないものか?結局、自己責任ということなのか!?」

 ……一体「悪い」のは誰だろう?ファイル共有ソフトを使っていた男か?無用心だった彼女か?ウィルスの作者か?掲示板に貼ったやつか?記事にしたライターか?S男によって「倫理的に最悪」と責められたやつらがいる。

 だが、ここでひとり重要な人物を忘れてはいけないだろう。そう、S男自身だ!彼の行為は許されるだろうか?

 「たしかに彼女には同情する。なるべくなら誰にも見てもらいたくないだろう。でも仕方ない。別に他人の不幸を覗き見したいと思ってるわけじゃない。知ってしまった以上、好奇心を止められはしないのだから…」という言い訳でもするだろう。

 彼は一体何者なんだろう。悪事を裁く正義の代理人なのか?それとも、彼は自分だけは「善悪の彼岸」に立っているとでも考えているのだろうか?

 だいぶ話が逸れてきた。お決まりのパターンだ。まぁ、もしこのブログをたまたま読んでしまった方は、ひまがあったら勝手に考えてください。

 単なるブログじゃないか。Web上の「私的な」記録にすぎない。いちいち自分の「立場」を規定することもない。「逃げ道」もある、「このブログは日々雑感です。読書感想文と同じようなものです」と。ただ「純情な」オレは、仲間からの「しょせん他人事じゃん!」という言葉に考え込んでしまったのでした。

 ここんとこ「いじめ問題」ばかり書いてしまっている。もともとこんなブログのはずじゃなかった……。というわけで、ここでひとつ、いじめについて語っている理由を明らかにしておきたい。そもそも考え始めたきっかけは、鈴香容疑者が学生時代にいじめられていたという話。あの凶行に及んだ背景を自分なりに考えてみたかったから。もっと根底には、やはりオレも人間だけに、人間の心理、行為の裏にある心理に関心があった。そのうち、北海道での女児のいじめを苦にした自殺があった。そこでのあの言葉、「みんな わたしのこときらいでしたか」!!あの言葉にとても衝撃を受け、そして胸が締めつけられる思いがした。ただそれだけのこと。でも、今でもその言葉を思い出すと、何かがこみ上げてくる。そして書かないではいられなくなる。言ってしまえば、感じ考えたことをただ心のままに書いてるだけのことなのだが……。

 さて、やっと今日の本題!いじめていた子どもたちのこと。

 朝日新聞(11/5付け)によれば、福岡の中2男児の自殺事件で、彼をいじめていたグループは、(葬儀の時にも亡くなった男児を前に笑ったり、せいせいしたなどと発言していたのだが)「生徒の自殺後、別の複数の男子生徒に対して言葉によるいじめをしていた」というのだ。「これを知った関係者が同校に通報。現在は、いじめは止まっている」らしい。

 さらに雑誌フライデー(11/17号)によれば、岐阜の中2女児の自殺事件で、彼女が遺書で実名告発したバスケット部の4人は、なんと仮通夜の時、遺体の部屋で手を合わせ、全員で声をそろえて「誕生日、おめでとぉ~」と言っていたという。そして「仮通夜を終えて外に出ると、何がおかしいのかドッと笑い声をあげていた」とのこと。さらには葬儀の当日には、「A子ちゃんの柩を乗せた霊柩車が学校の前を通るとき、同級生たちが道路際に一列に並んで最後のお別れをしたのですが、霊柩車が来るのを待つ間、件の4人は『(通過予定時間より)20分も遅れやがって。長いなぁ、寒いなぁ』と愚痴っていた」らしいのだ。

 これらの記事の内容が事実だとすると、いったいどう考えればいいのだろうか。これまでオレは、いじめの原因を主に「誰にでもある『ひとを嫌う心理』」と「集団力学」あるいは「(閉鎖的)社会集団における秩序維持機能的な傾向」などと考えてきた。だから、いじめた子どもたちについても、いたずらに個人攻撃はしないで、むしろ先生や役人を含めた学校環境を問題にすべきだと考えてきた。

 けれども、こうもひどい現実を見せつけられると、個々人に対する怒りが湧いてくる!!彼ら彼女らの心には、一人の人間が自ら命を絶ったということは、その人が登校拒否をしたり、あるいは転校したりして「姿が見えなくなった」のと同じようにしか写らないのだろうか!?自殺した子どもの方も、そういう今どきの「雰囲気」をわかっていて、「本当に迷惑ばかりかけてしまったね。これでお荷物が減るからね」と本気で思って死んでいったのだろうか!?(もしかしたら死語かもしれないけど)「ジェネレーション・ギャップ」というのがあるけど、オレと今の子どもとでは、こんな人間の根本的な感覚までも違っているのか!?

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2006年11月 5日 (日)

弟、兄を刺す!あるいは道徳について

 先日は、弟が兄をボーガンで撃つし、今度はナイフで刺すし。ついでに言うと、ちょっと前には、近所のおじさんが花火の音がうるさいってんで散弾銃を撃ったし……。

 当人にしてみれば、今まで我慢に我慢を重ねてきて、ついに「堪忍袋の緒が切れた」ということなんだろうけど、それで殺そう!?とまで思い至ってしまうのはどうして??散弾銃おじさんは殺意というよりは脅しのつもりだったのだろうけど、二人の弟の方は明らかに殺意を抱いてたんだろうな。今回の兄刺し事件は、ボーガン事件のいわゆる「連鎖反応」という気がするけど、それにしても理解に苦しむ。今の時代、兄弟喧嘩といえば殺し合いになってしまうのだろうか、、、

 ちょっと違うが、大阪の姉妹殺害事件の山地被告、「母親を殴殺した時に、もがき苦しんで死んでいった姿にかつてない興奮と快感を得たことを思い出し、誰でもいいから人を殺して同じ興奮を得たいと考えた」と。他人の気持ちを推し測る能力の欠如など心的な発達障害(アスペルガー症候群のひとつ)という話もあるらしいが、もしそういったことが事実であり、平気で他人を殺せるのだとしたら、我々の社会はそうした人間を受容してもよいのだろうか?(おっと、過激な発言をしてしまった)

 山地被告と今回の兄殺人未遂弟とを同列に論じることはできないけれど、「人の生命の重さ」を感じられないという点では共通しているだろう。一方には感受性の障害があるとしたら、もう一方は何なんだ?!と思えてしまうのだが…

 最近、道徳(倫理)についてあれこれ考えている。考えれば考えるほど道徳って何なのかわからなくなっている。とりあえず気付いたことは、「頭のイイ人は、道徳心がないっぽい!」ということかな。例えば2chの人たちはある意味尊敬してるけど、中には他人の痛みへの共感力不足な人もいるようで、平気で人を(陰でならまだしも、ネット上で公然と)傷つけるような発言をしてるし!(例えば少し前に問題になった私的画像流出事件の板とか)。あと例えば政治家は愛人がいて当たり前!とか……(偏見?)。話が逸れたが、例えば「人を殺すこと」は悪いことだと普通は考えると思うが、その根拠は何なんだ?前のブログで「自殺ってなんでいけないの?」ということを書いたけど、どうも「なにが善でなにが悪」なのか、よく考えたらわからなくなってしまった。

 そもそも道徳上の「善・悪」という価値の判断基準(内実)は、時代、文化、社会(制度)或いは身分(低所得者・高所得者)などで違うのだから、「なにが善いことでなにが悪いことなのか」という基準は、その社会を生きている者が諸々の「行為」を通して(実践的に)身につけるものだとしか言えないのかもしれない(絶対的な善とか悪とかはない?)。

 さらに、道徳とは形式的には(特定の内実を捨象して考えれば)「~すべきだ」「~すべきでない」という(自由)意志の問題だといえるので、結局個々人にどれだけ「規範意識」が根付いているか(どれだけ内的強制力が働いているか)にかかっている!ということになるのかも……。

 そう考えると、道徳っていかにも頼りないものに思えてくる。「人の命を軽んずる」ような文化で、かつ規範意識の希薄な人間は平気で他人を傷つけたり殺したりしてしまうのか!?…と。

 今回の事件が必ずしも「安易」な日常的な感覚のもとで行われたかどうかはわからない(そうだとしたらかなりヤバイぞ!)。「キレた」ことで衝動的にやってしまったのかもしれない(衝動的な殺人はたくさんあるから)。真実がなんであれ、こういうことが社会問題視される一方で、イラクでの大量殺戮なんかが当たり前に行われてるという矛盾した生命倫理観の社会を我々は生きているということだ。と、疲れたから無理やりなオチでおしまい。

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2006年10月13日 (金)

向井さん夫妻の代理出産に思う

 タレントの向井亜紀さん(41)と元プロレスラー高田延彦さん(44)の会見の模様をワイドショーで見た。夫妻は米国の女性の子宮を借りて出産した双子の男児の出生届を品川区に届け出た。東京高裁は区に対して出生届を受理するよう命じたが、区側がこれを不服とした。判断は最高裁に委ねられることになったという。日本では代理出産によって生まれた子供を、卵と精子を投じた夫婦の子供と認められない立場らしい。

 向井さんは、がんで子宮を摘出したため子供を作ることができなくなったそうで、それでも自分たちの子供が欲しかったから、規制のない米国の一部の州で代理母を頼んだという。

 オレは代理出産については考えたことがなかったので、会見をただボーっと眺めていただけだった。そして、「たしかに、自分たちの子供が欲しいという気持ちは当然だろうなぁ。せっかく出産してもらった"自分たちの"子供を、国が認めたくないというのは何でだろう?」と単純に思っていた。でも、ワイドショーで「代理出産を禁止する理由」というのを解説していたのを見たら、ことはそう単純なものじゃないんだとあらためて知った。以下に、「(厚生労働省が?)代理出産を禁止する理由」としてテレビで挙げられていたものを示す。

1、子供の福祉の優先

2、人を生殖の手段として扱うことになるため

3、安全性に対する配慮

4、優生思想の排除

5、商業主義の排除

6、人間の尊厳を傷つける

 ちなみに、今回向井さん夫妻の代理母となった米国の女性は、その報酬で家のローンを返済するという目的があった(と、テレビのコメンテーターの方が言っていた)。

 オレ自身は、子供を持たない身だし(未婚)、今は子供が欲しいと切実に思ってはいないので、夫妻がどれだけの思いをもっていたのかは想像するしかないが、やはり自分の子供が欲しいというのは切実な願いなんだろうなぁと思う。子供を持つといえば、たとえば子持ちの人と結婚することでもできるし、養子をもらうということもできる。そういう道は選べないのだろうかとも思うが……。

 恥ずかしい思い出だけど、そういえばオレは昔、ネット上で知り合ったメール友達がいて、しばらくメールのやり取りをしていたことがあった。でも、何と!当時のオレ、しばらく後に、相手の女性から「実は子供が出来ない体なんですよ」と告げられたことで、だんだん気持ちが遠ざかってしまったのだった。思えば、オレはなんてひどい人間だったのかと思う。なぜ当時のオレがそんな気持ちになったのか、ハッキリと説明できない。では今のオレはどうか?もちろん、たとえ子供ができないとしても、それはそれで仕方ないし、子供がいない人生というのもあるだろうと思う……と、言いたいが、正直言って自信があるわけではない。いざそういう問題に直面したとき、自分の気持ちがどうなるか、どう反応するのかがわからない。なにか本能的なものが働くのだろうかとも考えてしまうのだが。

 連れ子のいる女性と結婚したある男性がいる。その子の実の父は優秀な弁護士だったらしい。再婚した男性は勉強が好きじゃなくて、頭を使うのが苦手だった。だから新しい父親は、子供にあまり勉強を熱心にさせようとしなかった。でも、子供は大きくなるにつれて、めきめきと才能を発揮するようになり、結局学校の先生になったのだった。それを聞いてオレや周りの人たちは、口々に「やっぱり血だねぇ!」と言った。「血」、今の言い方では「遺伝子」とか言うのだろうか!?このように、もし子供が自分とはかけ離れたような人間に成長していったらどうだろう?正直なところ、ちょっと寂しい気持ちにならないだろうか?

 先日読んだ本がある。『心と遺伝子』という新書だ。世の中には驚くほど「好色」な男がいるものだ。オレの周りにもいる。もう60歳を過ぎているのだが、会うたびに愛人を自慢している。なんと「元気な」人だろうかと思っているが、この本によれば、「好色遺伝子」なるものが存在するらしいのだ。次々に浮気をしてしまう原因として、神経ペプチドの一種である「バソプレッシン」(受容体)というものが欠如しているという事実があるという。バソプレッシン受容体の少ない浮気者のネズミの脳に、ある操作をしてこの受容体を増やしたら、浮気性がなくなってしまったというのだ。

 もちろん、遺伝だけが大事なんじゃないのは百も承知だ。とくに人間の子供は生まれてからの教育がその子の性格を、そして人生を大きく左右するのは間違いないことだ。大きくなった連れ子だろうと養子だろうと、自分の子供になったら、愛情を感じるようになるのだろう。それが大事なことだと思う。なにしろ、自分の実の子供でさえ、邪魔になって殺してしまう親もいるのだし。でも、キレイごとだけじゃない、何とも説明しようのない本能的な何かがあるのもまた事実だと思えてくる。

 代理出産だけじゃない。たとえば厚生労働省のWebサイトを眺めると、「卵のシェアリング」だとかの議論がとうとうと論じられている。「精子が欲しいんです」「じゃあ、私の精子を売りますよ」「卵もありますが、30万でいかがですか?」なんてことがビジネス化したらどうだろうか?ちょっと例え話の言葉が悪かったが、極端に言えばそういうことになる。一方には本当に切実な思いを持った夫婦がいる。しかし、実質的にビジネスだとしたら?それより、そもそも「人間の尊厳」がないがしろにされてしまうじゃないか!?いろいろ考えるべきことがあるのだ。

 会見で向井さんがこう言ったそうだ。

「今はいろいろな方法で赤ちゃんが生まれるようになっている。親や母とは何なのか。もっと話し合われるようになったらうれしい」

 これを機会に、もっとみんなが考えていければいいのだろうと思った。

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2006年6月 7日 (水)

秋田の事件 その2

 なんなの!?この女性は?もしかして自分の娘を手に掛けたのも彼女?あくまで事故じゃなくて事件扱いにして欲しかったのは、カムフラージュのためだった?それが事実だったら、ホント、同情の余地ないね!警察が事件扱いしていれば、もしかしたら豪憲くんを殺害することもなかったのだろうか?

 それとも、解離性人格障害?殺害した時の自分は別のもうひとりの自分だったなんて言わないよね?だとしたらドラマの見過ぎじゃない!

 最近の若者たちの世代は、オレたちとは全く価値観が違う!

 オレの若い頃、「新人類」という言葉が流行った。そういえば、『まるで異星人(エイリアン)―現代若者考―』という本を読んだっけ(著者は中野収氏。出版は有斐閣で、初版が昭和60年)。「新人類」はオレたちよりも若い世代に適用されていた用語だけど、この本の対象はちょうどオレたち世代だった。要するに、いつの時代もジェネレーションギャップは存在しているわけで、常にその時の中年以上から見た若者は「エイリアン」なわけだ。

 でも今回の事件の加害者は33歳だっていうから、オレとそんなに世代の違いはないよな。それでも、オレにはこの女性の精神状態が理解出来ないぞ!

 だとしたら、あれこれの奇怪な事件の犯人の「動機の理解し難さ」は世代の違いからくるものじゃなくて、現代という時代状況の中の特殊な例だと言えるだろうな。特殊な例というか、突然変異かな?つまり、たとえ同世代人であっても全く理解し難い行為に走る輩がいるんだということ。今回の女性でも、たとえばこれが数十年前の時代状況の中に置かれていたとしたら、今回のような奇怪な事件は起こさなかったのではないだろうかということ。

 考えてみればそれは当然のことだよね。たとえば今50歳になるAさんが自殺したとして、それはAさん固有の性格に原因を帰するわけにはいかないわけで、自殺したのはリストラが横行する今の時代状況が背景にあるからこそだから。何人もその時代の制約からは逃れられない!ごく一部の天才を除けば、人のものの見方や考え方、発想などあらゆる思考内容はその時々の時代状況によって規定されている!

 …と、秋田の事件の女の心理を時代状況に絡めてしまうのはチト強引だったかな…。けど、最近取りざたされる「うつ病」って、もちろん昔からあったのかもしれないけど、やはり現在の時代状況がそれを増長させているという面は否定できない気がする。もちろん、ひと昔前は「精神病」とかでまとめられていたものが、より研究が進んで境界性~とか解離性~とかパニック~とか何とかに細分化されて捉えられてきたという面もあるだろうけど、まるで流行りみたいに「うつ病」とか言われてるのが気になるよなぁ。流行といえばスピリチュアルな~というのも、そうだろうしね。一見無宗教な人たちでも簡単にスピリチュアルな生活なんて騒いでいる始末だし。それって宗教やってるのと変わらないじゃん?みたいな。それとも風水とか星占いとかタロット占い、はたまたコックリさんのノリなのか!?

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2006年6月 6日 (火)

秋田の事件

とりあえず動機。本音を聞きたい。

どうなっちゃたんだろうね、日本。かなり…

精神(心)の無法地帯

って感じ。

 いろんなショッキングな事件って多いけど、でもごく一部の人間だけじゃん!ニュースになるとさも「日本はおかしくなってる」とか思いがちだけど、99%の人たちはまともです。

 といいたいところだけど、そんなのわかんないよ!オレだってどうなるかわかんないよ!あなただってわかんないよ!そんなもんだろう。

 「~すべきではない」とかモラルを叩き込まれて体に染み付いちゃってる人とか、あるいはちゃんとした宗教を信仰してる人以外は要注意じゃない?

 昨今の日本の世の中に自由!なんでもあり!みたいな雰囲気があるので怖い。

 堀江さんの事件でも村上さんの事件でも、モラル無くない?「金儲けのどこが悪いのか」って言うけど、その裏には「自分には能力があるんだし、実際勝負に勝ってんだからいいじゃん」って気持ちがあるように見える。自分の罪を認めてファンドから身を引いて一見いさぎよく見えるけど、なんか本音では「無能な一般大衆」を馬鹿にしてるみたいな。まぁ特に村上さんに関しては、何も知らないから勝手なこと言っちゃいけないのかもしれないけど。いろいろ言われてるように、今後の自己保身のためとか情状酌量を認められたいからとかがあるのかもしれないし、本当に素直に自分の過ちを懺悔する気持ちがあるのかもしれない。

 秋田の痛ましい事件での女と堀江さんとの間に共通点を見つけるのは、あまりにこじつけっぽいとこあるかもしれないけど、敢えて言ってみるなら、精神面でのブレーキ、歯止めというのが無い、まさにその点での無法状態じゃないかと思える。自分(達)が最優先!と考えるのは人間だから仕方ないかもしれないけど、自分(達)さえよければいい!他人の気持ちはどうだっていい!というのがあるんじゃないか!?

 ライブドア事件、インサイダー取引事件の摘発などは行き過ぎた社会風潮への国家的な自浄作用が働き、検察権力による制度的な歯止めとして決着させることが出来るだろうけど、でもそれが「彼らはちょっと目立ち過ぎちゃったから失敗だったんだ。もっと巧妙にやればいいのさ!」ということでは根本的な解決とは言えない。まして小学生を殺害した女性など歪んだ精神に対する歯止めはかなり困難でしょう。奈良の事件の被告への死刑求刑、松本被告への死刑(まだだけど)などが果たして凶悪犯罪、猟奇的犯罪への歯止め(犯罪抑止力)になるかどうかは大いに疑問だ…。

 で、言いたいことは何だ!?って言われると…困ってしまいます。そう簡単に答えなんてわからないよ!もちろん、決して単純に「自由放任」的社会が「悪」だなんて思ってはいない。道徳教育を徹底すべきというのも危険な気がするし、神を信じよ、仏に帰依しろっても思ってないし。日々どうすればいいのかを考え続けていくことしか出来ないかもね。

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