2006年11月19日 (日)

やっぱ親だよなぁ

 こんな記事を目にしちゃったので書いてみることに。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061118it13.htm

  1. 「親が社会のルールを教えていない」(65%)
  2. 「他人の痛みを思いやることができない」(55%)
  3. 「親が子どもの悩みを把握できていない」(52%)
  4. 「教師の指導力や資質に問題がある」(48%)
  5. 「学校が責任逃れをして問題を隠す」(45%)

 ずっと思っていたけど、子どものいないオレが書いてもなぁ……と遠慮していたこと。

 自殺事件で、校長や教育委員などが親の前で頭を下げる。親が怒鳴りつける光景。子どもを失った親のやりきれない気持ちはよくわかる。けど、、、どうせ頭を下げるなら、子どもの写真にしろよ!そして、その横で親も一緒に子どもの写真に頭を下げろ!要するに、どちらも揃って子どもに謝れ。「気付いてやれなくてすまなかった」と。

 いや、別に親や学校側を責めてるわけじゃない。なんで親と学校側が仇同士みたいになってんのや~!?と言いたいわけ。親と学校は協力し合って子どもの教育に一緒に責任をもっているのが本当じゃないのかな?

 ということで、本題。「やっぱ親だよなぁ」と思うことが多い今日この頃。最近、なんでか子どものことばかり考えてるうちに、子どもというものに親近感を覚えてしまったのだ。

 オレは子どもがいない(何度も言うな!)。だから「親の愛情」も育ってない。もともと「子ども好き」(だから保育士になったという人って多いよね)な人がいるが、ハッキリ言ってオレは子どもが苦手だった。何でかと言えば、多分だけど…あの純粋なまなざしに耐えられないからだ!

 またまた、我がスタンドの話。お客さんの車の窓拭きをする。子どもを助手席や後部座席に乗せたママさん(たまにパパさんだったり)のお客さんも多い。オレたちが窓を拭いてると、大抵の子どもはジッと見つめてくる。目が合うと、どういうわけか愛想笑いをしてしまうオレ。そう、どこかから「子どもを見て可愛いと思えないなんて人間じゃねぇ」みたいな声が聞こえてくるようで、半ば強迫的にひきつった笑い顔を見せてしまう。

 思えば、大人になると皆、なるべく目を背けるものだよね。どこかのスタンドに給油に行って、窓拭きしている店員をしげしげと見つめていますか?コンビニとかスーパーに買い物に行ってレジで精算してるとき、ジーっとレジ係の人を見てますか?視線に「意味」を持たせる大人にとっては、やたらと相手をガン見しないでしょ。

 でも子どもは違う!自意識の乏しい子どもは、とにかく好奇心たっぷりに直視してくる。まさか子どもに直視されて「なに、ガンとばしてんだよぉ!」と睨みかえすのも変だし、一緒になってジーって見つめかえすのも変だし、結局愛想笑いをするか、たまに(というか、ほとんど)見えてないフリをする。

 というように、今までは子どもさんのまなざしがとっても「迷惑」だったのだ。でも、いじめ問題をきっかけに子どものことを考えてたら、何となく子どもに興味を持つようになってきた。単純に「子どもって何考えてんだろう?」という関心。今では結構オレの方から子どもを見ることも。こっちから目を合わせようとするようになってきた。そうしてみると、大人の他人の目を見るよりも楽だと気が付いた。大人の目はあまりにも多くのことを語っているように思えるから疲れる。

 そして、まだ小さい子どもだと、遊び心でちょっとした仕草をすると喜んで笑ってくれる(いないいないバーなんてやってないけど)。ただ、あまり子どもと戯れてると、母親に「もしや幼児嗜好!?」なんて危険人物視されかねないけど…。

 と、前置きが長くなったが、そこで思ったのは、子どもによってずいぶん性格が違うんだなぁ!ということ(ここでは3歳~6歳くらいまでを主な対象と考えます)。先ほど、オレの仕草とかに笑ってくれると書いたけど、実はみんながみんなそうだというわけじゃないのだ!

 子どもをこちらが見つめると、見つめかえす子もいれば、目を背ける子もいる。しかも恥ずかしそうに目を背けたり、中には「なにこのオヤジ、キモっ」みたいな目で見て背けてみたり。こちらが笑うと、嬉しそうに笑いかえしてくる子もいれば、キョトンとした目で見てるだけの子もいる。

 明るい子、内気な子、照れ屋の子、大人びた子、怯えるような子、挑発的な態度をとる子、元気すぎる子、冷めたような子、威張った子などなど。

 そして、しみじみ思った。子どもの教育、というか躾って、誰が何と言おうとまずは親だよなぁ!と。学校に入るまえから、実に多様な子どもの存在というものがあるのだ。もちろん、学校に通っている子どもだって、学校が終わってからは、友だちや親や兄弟やあるいはひとりきりで相当の長い時間を過ごしているわけだ。

 先日、近くの本屋へ立ち寄った。ゲームソフトのコーナーを眺めていたら、親子連れがやってきた。その父親がまた「ヤ」系の人かというくらい恐もてで、声もやたらデカい。そして子どもたちに怒鳴っていた、

 「おいこら、お前ら、早く欲しいもん選べや!グズグズしてんじゃね~ぞ!」

 って、聞いてたオレがビビッてたくらいだけど、当の子どもたちは全く平気なもんで、父の声など気にも止めない風にケラケラ笑っていた。この子たち、学校ではどうなんだろう。間違ってもいじめられっ子じゃないだろうな。ひょっとしていじめっ子だったりとか…。

 兎にも角にも、学校は、実に多様な性格の人間たちの集まる場だということだ。そして、学校だけが教育の場じゃないということだ。そう考えると、アンケート結果は正直な「日常の実感」なんだろうと思う。

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2006年11月18日 (土)

いじめ自殺は流行りだから…

 もうすぐ「ブーム」は去るだろう。

 今はとにかく神経ピリピリさせて、我が校から自殺者が出ないことを願うだけ…。文科省、やめてくれ~、下手にメッセージなんて出さないでくれ。どんなこと言ったって、自殺する子は自殺しちゃうんだから。一番は、「シカト」することさ。世の中が騒がなければ、自殺しても誰も振り向いてくれないのかぁと思って、自殺する子も減るって!

 自殺ブームが去って残されるのは、、、悲嘆した親と、胸をなでおろす教育機関。

 本当の問題はどこにあるの?自殺?それとも「いじめ」?

 自殺ブームが去って残されるのは、、、もうひとつ、、、今までと変わらないイジメ。そして、相変わらず「いじめという認識はない」と言うガッコウ。

 オレは、いじめられている子に同情する。時代が違って、いじめの内容も違って、露骨だったり陰湿だったり、狡猾だったり素朴だったり、肉体的に虐められたり精神的に追い詰められたり、無視されて人格傷つけられて、尊厳を踏みにじられて、一度きりの学校生活を暗く嫌な思い出にされて、、、

 どうであれ、いじめって要するによってたかって弱い者をしいたげることだ。

 みんなでよってたかってしてるところが気に入らない。

 サイコウに卑きょう者じゃん!何でかって、誰かに「お前、なんてことしてんだ!かわいそうだろ!」と言われたとき、こう答えるだろう、

 「おれじゃないもん。○○くんが一番いじめてたんだから」

 「おれだけじゃないもん。○○くんも△△ちゃんもしてるもん」

 って、おまえはホリエモンかっ!

 でもね、もっと許せないのは、いじめられてた側だったものが、次にはいじめる側にまわること!とても過去のこと言われても同情できない。

 今日は感情だしまくってしまった。問題の核心は、個々人だけにじゃなくて、むしろ「状況」にあるというのはわかるんだけど。状況を変えるのはとても難しい。勇気のいることだ。でも、決して不可能じゃない。そして状況を変えられた数少ない人が本当のヒーローと呼ばれる。

 と、状況の前にひざまずいてるオレが偉そうに言える立場じゃないけど。

 だいぶ横道にそれたけど、誰かが死んでも地球は回ってるのと同じように、自殺ブームが去ってもいじめは続いてるということ。文科省には、くれぐれも「官製ワイドショー」などと言われないよう、ブームのあともしっかりとやることやってほしい、、、と願う一市民でした。

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2006年11月16日 (木)

自殺の連鎖と報道について

 「他人の不幸」には関心が集まりやすいものだ。さきほど、うちの店の近くの国道沿いで追突事故があった。ちょうど暇をもてあましている常連のお客さんが店内で新聞を読んでいた。このお客さん(?)、別にガソリンを給油しに来たわけじゃなく、ただ暇なので新聞読んだりおしゃべりしに来ただけだった(というか、お客さんか?1年に一度くらい給油してくれるだけで、あとは暇つぶしに来るだけ)。申し訳ないけどオレたちにしてみたら迷惑な人。そこで事故のことを話せば興味を示して帰ってくれるだろうと思って話してみた。「お客さん、この先で追突事故があったらしいですよ!」……案の定、お客さんはすぐさま立ち上がって、「じゃあまたね」といって急いで帰っていった……。

 テレビでの自殺報道のあり方が論議を呼んでいるようだが、例えばワイドショーでも、いじめで自殺した少年少女の話題は(とくに校長や教育委員会の対応がよくないと)ニュース的価値が高い。視聴者の受けもいい。それは仕方のないことだろう。みんな幸せハッピーエンド!といった内容はきっと面白くないだろうし。

 ともあれ、過剰な自殺報道は「連鎖」を生むから控えるべきなんだろう。

 けれども、ちょっと考えてみて欲しい。一体、自殺の連鎖が起こってしまう心理状況というものは何なんだろうかと。たしかに、同じような境遇の子どもたちにとって、「自殺という方法」がアピールされることで、その「方法」に触発されるという面は大きいとは思うが、もっと重要な点は、一連の自殺事件に対する大人たちの対応(そのまずさ!)がアピールされることだと思う。校長や教育委員会の不用意な発言や、保身を思わせるような態度、対応を見ている子どもたちはどう感じる?

 「あぁ、大人たちに言ってもわかってもらえないのか…。解決してもらえないのか…」

 極端な言い方だが、一連のいじめ自殺事件というのは、(当の子どもにとっては)「自殺の連鎖」というより、「むなしさの連鎖」じゃないのか!?

 報道機関に提言(えらそうだけど…)。「こうして無事いじめ事件が解決しました!その方法とは!!」みたいな、子どもにとって希望が持てるような報道をしてみては!?これで「自殺の連鎖」じゃなくて、「解決の連鎖」現象が起きるだろう!

 いや、もちろんそのためには、実際にそういう事例がないと話にならないのだけれど……。

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自殺した校長の気持ち?

 今日、お得意様の車の車検が終わり、引き渡すことになっていた。でもオレはとっても憂うつな気分だった。そのわけは次のような次第…。

 当店(ガソリンスタンド)では車検をトヨタのディーラーに委託することがあるのだが、その際、ディーラーと交渉してできるだけ値引きをしてもらい、お客様にできるだけ安く車検を受けてもらおうとしている。今回のお客様は前回の車検時に「他で10万円で車検をしてくれると言っているが、君のところはいくらでできるの?」と言ってきたので、オレは交渉してディーラーに10万円まで値引いてもらった。そのこともあって今回もまたお客様から車検を頼まれた。ところが、オレの交渉が中途半端だったため、今回の車検ではほとんど値引いてもらえず、約1万以上も金額が上がってしまった!(ありゃ?こんなこと書いていいのかな?)

 お客様の信頼に応えられなかった自分の至らなさや、お客様に何て説明すればいいのかわからず、オレはずっと苦しんでいた。お客様が来店する時間が迫るにつれ、申し訳なさがこみ上げてきて、胸が痛んだ。何と表現すればいいんだろう……自責の念とでもいうのか?どうやってお客様に償おう?(う~ん、なんて責任感が強いんだ、オレ!…ハハハ)

 そうやって考え込んでいるうちに、ふと「あぁ、この命を投げ出すことでゆるしてもらうしかないか!」という思いが浮かんだ。

 さてさて、なんと馬鹿げた話なんだと思われるだろう。およそ理性のかけらもない人間じゃないか!とか…。

 もちろん、自殺などするはずはなかった。……なかったけど、心から申し訳ないことをした~と考えているうちに、実際(ほんの一瞬だけ)「命と引き換えになら…」という思いがよぎったのだった。そして思った、「あの自殺した校長の気持ちが少しわかったかも!」と。そして、すぐ今しがたの自分の心理状態を振り返ってみた。

 「そんなぁ、たかが車検のことじゃん!」

 「素直にミスを認めて謝れば済むさぁ!」

 でも、その「一瞬の時間」頭にあったのは、「車検代が高くついてしまったという動かしがたい事実」であった。もう過ぎてしまった過去、決して変えることのできない過去。そのことだけが重くのしかかっていた。

 周りが何と言おうと、オレにとって重要なのは、その「重み」だったのだ。お客様をひどく不愉快にさせるだろうと考えると胸がキューっと痛んできて、次第に意識が薄らいでいく。その瞬間、たしかに、自分の命の重さは、相手に対する罪の重さよりも軽くなった。

 「相手の許しを請う」ために、いやもっと突き詰めれば「自分のこの苦しみから逃れる」ために、「自殺」はとても手軽で、かつ確実性があり魅力的に思われた。自らに問うてみた、「死ぬなんて馬鹿げたことじゃないか」、「死ぬ時ってきっと苦しいぞ、痛いぞ」、「死んでも何の解決にもならないってわかりきってるじゃないか」云々…。そう自分の理性の声が呼びかけても、半ばトランス状態にあるもうひとりのオレにとっては遠くから聞こえる「空虚な言葉」としかとらえなかった。

 なんていうか、、、そういう当たり前の言葉などは、「薄い」って感じ。色が「薄い」というか「半透明」というか、つまり現実が持っている「くっきりとした色」がないのだ。

 ……という話。長々と一見無意味な話。

 でも、いわゆる「視野狭窄」に陥っているときって、そうなんだと思う。所詮人間なんてそういう単純な生き物なんだということかもしれない。「その立場」に置かれていない状態の人間は、いくらでも理性的に考えることができる。だが、深く悩んで苦しくて思考が偏ってしまっている当人にとってはそれは無理なのだ。「生きてさえいれば、ぜったいにいいことがある」、「君が死んでも相変わらず地球は回っている。何も変わらない。死ぬだけ損だ」、「逃げればいい、決してそれは悪いことでも恥ずかしいことでもない。新しい環境で新しい生活を始めればいいだけだ」……そんな言葉はぜんぜん本人には届かないものだ。

 「とにかく楽になりたい!」「楽になれる!」…ただそれだけしか考えない。いま踏ん張って生きていればきっと道が開けるかもしれない。そりゃあそうかもしれない。でも繰り返すが、そんな言葉には「重み」がない。現実の持つ「くっきり感」というのがない。「薄い!」。色が「薄い」。つまり遠いところでの話、絵空事という感じしかないのだ。

 そんな切迫した状況を疑似体験したい人のために、方法を教えましょう。ぜひ試してみて下さい(ただし、精神的というよりも肉体的な内容ではあるが)。怖~い鬼教官がいると仮定する。そして教官がやめと言うまで「腕立て伏せ」をしなければならないとする。さて、実践。腕立て伏せを何回か続ける。もう自分の限界だという一歩手前まで。もう腕も相当疲労していて、腕を伸ばすとき、上腕三頭筋(上腕の後ろの筋肉)がプルプル震えているだろう。伸ばしきったらもう一度腕を曲げて体を下げる。その状態で止まる!おなかを床につけては絶対にダメ!もしおなかをつけたら鬼教官から叩かれまくって死に至るのだ。さぁ、かなり苦しいはずだ(本当に試さないと意味ないよ!想像だけじゃダメ)。とても苦しい!もう限界だ~!周りの見学者たちは何か叫んでるとしよう。「がんばれ、今やめたら損だぞ」「我慢すればきっと幸せなことが待ってるぞ」。そんな言葉は何の解決にもならない!根本的な解決とは、鬼教官がいなくなってくれるか、もうやめていいと言ってくれることしかない。つまり、今の苦しみを生み出している原因をなくすことしかないのだ。それができない今、ふとささやかれる…「簡単だよ、パッと力を抜いておなかをつけちゃえば楽になるんだよ」。

 以上、これは肉体的な苦しさだから実感することが難しいが、これが精神的なことだったら……。「楽になりたい!」、そしてちょっとしたことで「楽になれる!」。視野狭窄になっている状態で、この悪魔のささやき、この誘惑がどれほど安易に選択されやすいものか!

 一度自分を「極限状態」に持っていってしまってからでは、たぶん手遅れじゃないだろうかと思う。自殺の前兆として、自殺する、自殺したいと周囲に漏らすことがある。その時点では自殺を「決意」しているわけではない。実際に自殺をする直前と、自殺を考えているときの感情・感覚は同じものではない。自殺直前にはかなり視野が狭くなってしまっていて、ボーっとしている。同じものではないというなら、自殺をほのめかす発言には意味がないのか?いや、漠然とであれ自殺したいと思うことや、それを口にすることが繰り返されるうちに、それがいつの間にか「自己暗示」となってしまうのだと思う。視野狭窄となり理性的な意見を受け付けられなくなるというのは、自分的には心が「いっぱいいっぱい」の状態となっている場合だ。自殺予告をした時点では、それをできるというだけ、まだ若干であれ心に余裕があるという証拠だと思われる。

 校長の自殺の話から、子どもたちの自殺の話に変わってしまうが、子どもたちを自殺から救うには、前兆とみえる言動があった時点で何とか救うようにすることが重要だ。その時はまだ話を受入れる余裕が残っている時だから。だから、必要なことは、普段から親、先生、生徒全員に自殺の兆候に敏感に反応すべきことを周知徹底することだと思う。

 もうひとつは、理想的には「根本的な解決」をはかることだということ。登校拒否は必要な処置だが、それが根本的な解決にならないことは子ども自身がよく知っているはず。根本的な解決とは、すなわち現にいじめてる子どもを何とかするということ。いじめが発覚した時点で、全力でいじめっこを何とかするということだ。

 なんとも本日は対処療法的な話でした。

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2006年11月11日 (土)

ええかげんにせんかい!自殺予告

 (はじめに、タイトル「ええかげんにせんかい!自殺予告」が本文の趣旨と違うということをお断りしておきます。わたくしのブログでは、そのようなことがたまにありますので慣れてください。)

 伊吹文科相、ずいぶん子どもたちから慕われたものだ!

 思えば、北海道小6女児の自殺事件のとき、学校・教育委員会の態度を問題あり!と発言したことが、さも流れを変えたように映ったっけ。実際は、全国からの抗議の電話やメールのお陰だろうけど、ともかくあの時、テレビで放映された伊吹大臣の姿が、全国のいじめられている子ともたちには、最後の救いのように見えたのかもしれない。しかも、なんとなく「おじいちゃん」っぽい顔してて、話し方もやさしそうだし。

 今回、伊吹大臣が国会答弁で、「命を守るために、本当に困っている人は学校でも両親でも私でも構わない」と言ったそうだ。

 まぁ、彼がもう少し情熱たっぷりの話し方をしてくれたらありがたいのだけど、それでも一国の文部科学大臣が「私でも構わない」と言ったのは素晴らしい!

 結局は、いじめられてる子どもたちは、わかってもらえる人が欲しいんだよ!まわりが信じられないようになっている。子どもなりに狭い視野ではあれ、必死になって誰かを探しているんだ。

 いじめをなくす対策云々も大事だけど、今、現にいじめられている子どもに対して、世の中がもっともっと手を広げてあげる姿勢を示すことが必要だ。すぐにでも必要だ!もっと社会全体が、「君のことを見捨ててないんだよ!」という姿勢を明確に示すことだ!とくに子どもたちがこれだけマスコミの情報を見ているのだから、テレビに露出している人たちが中心となって(みのもんたのように)、ウソでもいいから情熱を見せてやるんだ!

 このさい、いじめ相談窓口として、文部科学大臣自らが「相談室長」とかのたすきをかけて、テレビに登場することだ!

 って……、子どもたち諸君、文科相に手紙出して、身分を明かして頼んでも、結局は対応するのは、地区の教育委員会→学校→担任の先生なんだよね…。それを考えると、ちょっと力が抜けるかもね。

 それでもさぁ…、たとえすぐに状況が改善されなくとも、一国の大臣が「気持ちをわかってくれてる」、「すぐには無理でも、何とか改善するよう努力していく!って言ってくれてる」というだけでも、子どもたちの強い精神的支えになれるんじゃないかい!

 今日が「とっても悲しい日」として日本の歴史に残らないであってほしい。

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2006年11月10日 (金)

もういい加減話題を変えたいのだが

 いじめ、いじめ、いじめ、いじめ、、、うんざりするくらい頭から離れない。

 今日もまた、別の女児が文部科学省に自殺予告文だとか。どっかの誰かが言っていた。11日に一緒に自殺しようと考える子どもが出てくると(たしか2ch)。その通りになりそうだ。

<http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061109-00000069-mai-soci>

 それにしても、結局今のところ該当するケースが発見されていないというのは何を意味するのだろうか?あの予告手紙がウソだったということか?手紙にはこうあった。

 「担任の先生へ なぜ僕をたすけてくれないのですか。僕は、なん回も先生に言ったし親も先生にいじめについて言いました。もう先生が言ったように『がまんしろ』『お前が悪い』など先生に言われましたが(以下略)」

 「教育委員会へ ……親が教育委員会に学校がなにもしないとなんどもなんどもいったのになぜなにもしないのですか(以下略)」

 今、まさか現場の先生たちはこの事件を知らないってことはないでしょうね。だとしたら、先生の中に、こうしたことに身に覚えがある人はいないのだろうか?生徒の親も先生に訴えたことがあると手紙ではいってる。その点でも心当たりのある先生はいないということか?さらに教育委員会へも親が何度も言ったことになっている。そういう事例をまったく持っていないのだろうか?

 そもそも調査というけど、どんな形で調査が行なわれるんだろう?思うに、手順としては、まず手紙の内容が事実だとすれば、手っ取り早いのは全国の教育委員会で今回のような事例の相談があったかどうかを調べればいい。そして、似たようなでもいいから該当する所があれば、次にその担当区域の学校へと駒を進めればよい。素人考えかもしれないが、そういうことなんじゃないのかな?

 でも教育委員会なんて、ちゃんと仕事してるかどうかが、まずもって怪しいのだから。先日うちの店のお客さん(元教育委員、その前には教頭)と話していたが、その方いわく、「だいたいいじめにしても、未履修問題にしても教育委員会の怠慢なんだよ!彼らがちゃんと仕事をしてないからダメなんだ!」、「教育委員会の仕事には、各学校の運営を管理することもあるが、先生を評価して辞めさせたりする人事の仕事もあるんだ」と。ほう、そうだったの。行政面だけじゃなく先生を評価するのも仕事にあったんだぁ!

 教育委員会もさることながら、各学校に関しても信じられなくなっている。三輪中の元担任のTじゃないけど、本当は手紙にあるような相談を受けたり、その子にそのような発言をしたりしてた先生もいるのかもしれないけど名乗り出なかったらそれまでじゃないか。朝の会議かなんかで教頭あたりが「先生方の中で、今回の件にあったような相談を受けた方がいらっしゃいましたら、あとでおっしゃってください」とか言っただけじゃないのか。

 ただ、もし事実として、「あの」予告文にあったような事例がなかったとしても、もうそのことの真偽だけにとどまらないところまで問題は深刻化しているかもしれない。「あの」手紙自体が本当かウソかに関わらず、共鳴しての連鎖的な同時自殺でも起こってしまったら、その予告文は実行されたと同じことになってしまうからだ

 さらに重要な点は、「共感」した自殺ということ、つまりはあの手紙に書かれた内容と同じようにいじめで苦しんでいて、「私も同じだ!そうだ私も自殺しよう!」と思う子どもが実際に出てしまったら、あの手紙の内容は事実だったということと本質的に違わないということになるのだ!

 、、、今さらだけど、、、文部科学省はあの手紙を公表しない方が賢明だったのかもしれない。あれが表沙汰にならなければ模倣する子どももいなかったのかもしれない、、、なんてことに土曜日がならないでほしい。とにかく実行されないことを心から願う。本当に今、憂鬱な気分だ。ショッキングなニュースには事欠かない毎日だが、もしこれが現実のものとなってしまったら、とにかく悲しい。

 ふと思った……。いじめの中に「無視」がある。まるでそこには存在しないかのように振舞われる。大人の世界でも結構使われるいじめの手口だ。手軽に相手にダメージを与えられるこの「無視」。とくに多感な時期にある子どもにとって、自分の全存在を否定されているような状態はどうなんだろう。集団とは関係性だ。私とあなたとが関係を持っているということで、集団にいる限りは、その関係性の中でこそ「私」というものの存在が現実味を与えているともいえる(極端に言えば)。つまりはそこで「生きている」という実感が得られる。目の前に確かに人がいるにもかかわらず、それに触れることができない(関わることができない)!いっそ夜道をひとりで歩いていたほうがよっぽど自分を実感できる、そんな状況って、言ってみれば「生きながら死んでいる」状態だ!つまり、無視といういじめによって、子どもはすでに死んでいるのだ!ただ肉体だけが在るにすぎない。ならば……、ならば、自殺とは単に抜け殻のような肉体を消滅させるだけでしかないんじゃないか!?……こういうのは、ただの観念上の遊戯で、ばかばかしい話だ!と思いたい。

 自殺は確実に苦しみから脱せられる「とってもよい方法」だと思っている子どももいるのかもしれない…が、本当は死にたくなんかない。「子どもは死を軽く考えすぎている」、「ゲームのように3人までは死んでも大丈夫!なんて思っているのかも」…とか言われるが、でもやっぱり死にたくはないはずだ。出来ることなら誰かに助けて欲しいと思っているに違いない。以前も書いたけど、問題はあくまで「いじめ」だ。自殺しようがしまいが、いじめを受けてる当の子どもにとっては、「いじめられている」という現実こそが重要なことなのだ。おそらくは圧倒的多数は自殺できないでいる子どもたちだろう。

 またしても、いじめの話に終始。次は「飲酒運転野郎がまたも子どもの列に突っ込む!」ことについて語りたい、、、と、思ってはいるけれど。

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2006年11月 9日 (木)

いじめてた子をどうする?そしてオレは何なの?

 (あらかじめお断わりしとくと、今日の文章の前半は余談、後半は「いじめ」についてという構成になっております。)

 自殺予告がニュースになった日。オレは職場のみんなに聞いてみた。

 「今度は自殺予告だってよ!どうすりゃいいんだろうな!?」

 「自殺したいならさせればいいじゃないですか。だって自殺したいと言ってるんだから止められないし。だいたいそういう人は大人になってもろくな人間にならないから」

 「てゆーか、なんでそんなにいじめをアツく語ってるの?しょせん他人事じゃん!」

 そうだ、所詮「他人事」なはずだ。なのに何でオレはこうして語ってるんだろう?世の人たちも大半は「自分事」じゃない。学校関係者や文部科学省は仕事だからどうしたって当事者として関わらざるを得ない問題だが、小さい子どものいない家庭やオレのような独身者の一般市民にとっては「他人事」。

 地下鉄サリン事件も、青森でりんごが盗まれた事件も、ホリエもんが裁判受けてることも、病気のために摘出した腎臓を移植した問題も、朝鮮民主主義人民共和国が核実験をやったという問題も、松井がホームランを打ったということも、それらに直接関係がある人やきわめて近い位置にいる人やマスコミ関係の人じゃなければ、とりあえずは「他人事」ということもできる。

 「拉致被害者」たちやその家族のことをかわいそうだと思う。イラクで処刑された香田さんのことはショックだった。何か署名でも回ってきたらぜひとも協力したい!と思う。そう…、同情はするけど、結局は「他人事」。「日本国民はみんな怒ってる!」とか言われても、別にどうだっていいと思ってる人もたくさんいる。

 オレじゃなくとも、いろいろな問題をブログに書いてる人がたくさんいる。「これはけしからん!」、「ここはこうすべきだ!」、「問題の本質はここにある!」等々。

 で?…あんたが叫んで、何がどう変わるの?あなたは何か責任をもってるの?「おまえたちは悪者だ!」って、あなたは誰?正義の味方?神?仏?あっ、学者か?それとも評論家?

 (ちょっと話がズレそうだけど、ついでに女性の一部には嫌悪感を抱く人もいるかもしれない話だけど)例えばの話(ちなみに主人公はS男としよう)……ある男がファイル共有ソフトを使っていたら、おかしなウィルスに感染してしまってパソコン内の情報が流出してしまった。その中には自分の仕事上のマル秘情報が含まれていた、のみならず彼女とのエッチな写真も大量に含まれていた。彼女の画像は実名とともにネット上にばら撒かれ、しかも誰かの手によって彼女の友人たちの集まる掲示板に貼り付けられてしまい、親しい友人たちにも知られてしまった。それだけでは済まなかった。なんと大衆誌がそのことをネタにして報道、ネット上だけでなく広く世間に知れ渡ってしまった。ところで、その話を聞きつけた我がS男がさっそくネット上で検索してみたら問題の写真を発見した。S男は叫んで言った「あぁ、なんてかわいそうなんだ!それにしてもこの彼氏は最悪やなぁ。彼女も無防備だったというか、まぁ自業自得かな。それにしても一番悪いのは掲示板に貼り付けてしまったやつだ!人間じゃねーな。マスコミもマスコミだ。人権侵害も甚だしい!こいつらを裁く法はないものか?結局、自己責任ということなのか!?」

 ……一体「悪い」のは誰だろう?ファイル共有ソフトを使っていた男か?無用心だった彼女か?ウィルスの作者か?掲示板に貼ったやつか?記事にしたライターか?S男によって「倫理的に最悪」と責められたやつらがいる。

 だが、ここでひとり重要な人物を忘れてはいけないだろう。そう、S男自身だ!彼の行為は許されるだろうか?

 「たしかに彼女には同情する。なるべくなら誰にも見てもらいたくないだろう。でも仕方ない。別に他人の不幸を覗き見したいと思ってるわけじゃない。知ってしまった以上、好奇心を止められはしないのだから…」という言い訳でもするだろう。

 彼は一体何者なんだろう。悪事を裁く正義の代理人なのか?それとも、彼は自分だけは「善悪の彼岸」に立っているとでも考えているのだろうか?

 だいぶ話が逸れてきた。お決まりのパターンだ。まぁ、もしこのブログをたまたま読んでしまった方は、ひまがあったら勝手に考えてください。

 単なるブログじゃないか。Web上の「私的な」記録にすぎない。いちいち自分の「立場」を規定することもない。「逃げ道」もある、「このブログは日々雑感です。読書感想文と同じようなものです」と。ただ「純情な」オレは、仲間からの「しょせん他人事じゃん!」という言葉に考え込んでしまったのでした。

 ここんとこ「いじめ問題」ばかり書いてしまっている。もともとこんなブログのはずじゃなかった……。というわけで、ここでひとつ、いじめについて語っている理由を明らかにしておきたい。そもそも考え始めたきっかけは、鈴香容疑者が学生時代にいじめられていたという話。あの凶行に及んだ背景を自分なりに考えてみたかったから。もっと根底には、やはりオレも人間だけに、人間の心理、行為の裏にある心理に関心があった。そのうち、北海道での女児のいじめを苦にした自殺があった。そこでのあの言葉、「みんな わたしのこときらいでしたか」!!あの言葉にとても衝撃を受け、そして胸が締めつけられる思いがした。ただそれだけのこと。でも、今でもその言葉を思い出すと、何かがこみ上げてくる。そして書かないではいられなくなる。言ってしまえば、感じ考えたことをただ心のままに書いてるだけのことなのだが……。

 さて、やっと今日の本題!いじめていた子どもたちのこと。

 朝日新聞(11/5付け)によれば、福岡の中2男児の自殺事件で、彼をいじめていたグループは、(葬儀の時にも亡くなった男児を前に笑ったり、せいせいしたなどと発言していたのだが)「生徒の自殺後、別の複数の男子生徒に対して言葉によるいじめをしていた」というのだ。「これを知った関係者が同校に通報。現在は、いじめは止まっている」らしい。

 さらに雑誌フライデー(11/17号)によれば、岐阜の中2女児の自殺事件で、彼女が遺書で実名告発したバスケット部の4人は、なんと仮通夜の時、遺体の部屋で手を合わせ、全員で声をそろえて「誕生日、おめでとぉ~」と言っていたという。そして「仮通夜を終えて外に出ると、何がおかしいのかドッと笑い声をあげていた」とのこと。さらには葬儀の当日には、「A子ちゃんの柩を乗せた霊柩車が学校の前を通るとき、同級生たちが道路際に一列に並んで最後のお別れをしたのですが、霊柩車が来るのを待つ間、件の4人は『(通過予定時間より)20分も遅れやがって。長いなぁ、寒いなぁ』と愚痴っていた」らしいのだ。

 これらの記事の内容が事実だとすると、いったいどう考えればいいのだろうか。これまでオレは、いじめの原因を主に「誰にでもある『ひとを嫌う心理』」と「集団力学」あるいは「(閉鎖的)社会集団における秩序維持機能的な傾向」などと考えてきた。だから、いじめた子どもたちについても、いたずらに個人攻撃はしないで、むしろ先生や役人を含めた学校環境を問題にすべきだと考えてきた。

 けれども、こうもひどい現実を見せつけられると、個々人に対する怒りが湧いてくる!!彼ら彼女らの心には、一人の人間が自ら命を絶ったということは、その人が登校拒否をしたり、あるいは転校したりして「姿が見えなくなった」のと同じようにしか写らないのだろうか!?自殺した子どもの方も、そういう今どきの「雰囲気」をわかっていて、「本当に迷惑ばかりかけてしまったね。これでお荷物が減るからね」と本気で思って死んでいったのだろうか!?(もしかしたら死語かもしれないけど)「ジェネレーション・ギャップ」というのがあるけど、オレと今の子どもとでは、こんな人間の根本的な感覚までも違っているのか!?

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2006年11月 7日 (火)

自殺予告の手紙

 関係者…いたずらか?と思いたいんだろうけど、もし本当だったら自分たちの責任を追及されるので必死になってるだろうな。

 自殺者へ。それからオレもオレもと追随する自殺希望者へ。

 もし本当のことなら、犬死の可能性が高いのでやめたほうがいい。生まれ変わったり、呪い殺したりするなんてのは、100%ウソです。もし恨んで呪い殺せるなら、世界中で不審死が頻発してるでしょう。恨んで死んでいった人たちはいっぱいいるのだから。

 これまでの人生で損をしてきたでしょう?死んだら、損しただけの人生になってしまうから。そりゃあ、一時は世間も同情するかもしれないし、マスコミも話題にして、学校も教育委員会も多少はダメージを受けて、体質を変えなくちゃと言うだろうけど、所詮時がたって忘れられることを祈ってるだけだから。

 親にごめんなさいとか、またあなたの子どもに生まれたいなんて言っておきながら死んでしまうのは、決して親を愛してるって態度じゃないと思う。

 それに、他人の痛みがわからないようないじめっ子のために命をかけるなんてバカらしいと思わない?

 親にも先生にも教育委員会にも頼れないというけど、世界はそれだけじゃない。本を書いてるような子どもの気持ちをよく理解してくれる大人(先生)もいるんだから、いっぺん家出してみな。

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文科大臣宛の自殺予告

 全文

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061107k0000e040057000c.html

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ちょっと無責任に語ってみました

 いままで「いじめの原因追及」ばかり語ってきたので、今回は「いじめを減らす方法」について思いつくままに語ってみよう(ほとんど参考にならないので真剣に読まないで)。

 基本的な確認事項(1)

 まず、いじめはなくせないだろう!これは人間社会の宿命のようなものなので。どんな社会体制になっても基本的に変わらない。だから、いじめを「減らす」よう地道に努力するしかない。

 基本的な確認事項(2)

 いじめの原因は、ひとつではない。例えば「個々人の性格や価値観の多様性と、集団に内在する同質化傾向(異質なものを排斥する傾向)との矛盾・対立」というのもあれば、例えば単にゲーム感覚でいじめるという場合もある。その他いろいろあるかもしれない。だから、対策も多岐にわたるだろう。

 というわけで、ひとつの対策案!

 まず現状、先生には子どもたちひとりひとりに気を配る余裕がないということなので、先生にゆとりを持ってもらうために授業で教える内容を少なくする。その分、しっかりと子どもひとりひとりを見つめること。これは特に小学校低学年で行う。ところで教える内容を減らすと受験対策が疎かになるから、いっそ受験をなくす……というのは不可能だろうから、せめて受験のハードルを低くする。例えば大学はもっと入りやすくして、そのかわり卒業を厳しくする。それと、間違っても幼稚園受験なんてものは国の名において禁止する。

 小学校で教える内容を減らせば、当然中学校にしわ寄せがくるじゃないか!という意見。それは、そもそもひとりの生徒に教えるべき内容を一律に決めてしまっているから悪いのだ!「最低限これだけは必須だ」という内容を今よりも絞り込む。中学校からは、全校生徒「画一的」な授業の仕方をやめて、生徒自身に自分が興味ある教科、学びたい教科を「選択」させるのだ。もちろん最低限の必修科目の履修は強制するし、選択させるといっても極端に分野が偏らないよう工夫する。

 ここでのポイントは、生徒がある程度自由に学習科目を選べるので、従来のように「学級」に拘束されることがないというところ!基本的に「所属する学級」はあるが、それも「緩やかな拘束」であって、今までよりもかなり「流動的なクラス構成」となるだろう。したがって、所属する学級でいじめをうけていたとしても、次の授業では解放されることにもなり得るわけだ。

 「いやいや、子どもにとっては特定の集団内で揉まれることも人間関係を学ぶ上で大切な経験だ。逃げてばかりいては大人社会で通用しない」という意見もあるかもしれない。でも、そんなに四六時中同一集団にいるべき理由もないと思う。まったく集団から離れて生活するわけじゃないのだから。そもそも、いろいろな家庭環境で育てられた多種多様な子どもたちを、「平等」の名の下に無理やりひとつの集団に縛りつけてしまう公立学校がおかしいわけで。

 さて、小中学校でのもうひとつのポイントは、体を動かすような教科を増やすこと!体育とか学外へ出ての授業とか。体を動かすことはストレス発散に寄与するだろう。

 次に高等学校。ここでは、先生にエキスパートを起用する。自分の特性を見つけた生徒や、学びたい学科の方向性がある程度見えてきた生徒には、ガンガン突っ込んだ授業を行う。エキスパートの人材をどうするか?すでに大学受験のハードルを低くしたので、当然「予備校」講師が余ることにもなる。オレ自身経験があるが、予備校講師は単にある教科のエキスパートというだけでは決してないのだ。とくに名物講師とか呼ばれている人たちは、それだけ人心掌握術に長けているともいえるが、のみならず彼らはその姿勢に「魂」がこもっているのだ!例えばオレは「英語」の人気講師、「小論文」の人気講師などの講義を受けたが、そこで教わったのは教科の内容以上に「人間的な情熱」「生きざま」「人生観そのもの」とかだった。とまぁ、予備校講師は一例だが、同じようにベテラン教師も探せばいると思うので、学校の責任においてエキスパートを揃えるということ。場合によっては「引き抜き」とかもありで、全国の高校で年棒制とかを導入して競争が始まるかもしれない。ただし、この場合地方が取り残されることのないよう、重点的に補助金政策も忘れてはならない。

 さらには、高校においては、アルバイトなど「実社会」へどんどん出ていくことを推奨する。学問を追求したいものは学問に集中すればよいし、あまり勉強が好きじゃないものは早々に社会へ出ていくようにすればよい。親からすれば、将来社会へ出ても大卒の方が生涯賃金とかも違ってくると考えるので、やはり大学進学に固執する傾向が出てくるだろう。それはそれで自然に任せればいい。ただし、進学はできたとしても、大学に入ってからはそれなりに目的意識を持ってより専門の学問に没頭する日々が続くので、中途半端な気持ちの者は卒業に至らずやめてしまうしかないのだから、親としても「投資」が無駄になる可能性も大きいのだ。そのうちに、人々は「本当に幸せな人生ってお金だけじゃない」ということに気付くようになる。また、大学教育の充実はお国にとってもプラスとなる。国際競争力を高めるような先鋭的な人材が作られるからだ。

 以上のプランを実現することで、いじめ問題などいつの間にか消えて無くなるに違いない。ついでに「履修不足」問題なども起こらなくなる。ただひとつ難点は、こんなの実現するわけないだろー!!ということ。

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2006年11月 6日 (月)

ETV特集「いじめを考えよう」を観て

 11/4にNHK教育テレビで放映された「いじめを考えよう~特集金曜かきこみTV~」(19:00~21:00)を録画していて、今さっき見終えた。

 子どもたちからの声を中心にして番組がすすめられていた。そういう掲示板があったことを今回初めて知った。

http://www.nhk.or.jp/kktv-rb/bbsc/ijime/bbsscmenu.html

 感想をいくつか。

 「いじめられる側も悪いか?」という問いかけがあった。(オレとしては)そんなもん、いじめられる側が悪いなんてこと100%ない!に決まってるじゃん。本人が弱いから、和を乱すようなことするから、自分勝手だから、外見に問題あるから、言葉使いがきついから、すぐチクるから、変わった趣味があるから、協力的じゃないから、嫌われるような行為をしたから、まじめだから、ええカッコするから、勉強ができるから(できないから)、、、とかいろいろ理由が挙げられるだろうけど、少なくともオレから見たら「悪い」なんてことない。「悪い」んじゃない、ただ「そういうやつ」なだけ。ただ、ここが問題なんだよな。オレから見たら「悪くない」んだけど、その子の属している集団から見たら「悪い」んだよ。まぁ必ずしも大集団というわけじゃなくて、何人かのグループでもいいけど……。要するに、誰の視点から見るかによって答えは違うのだ。そして、その集団からみたらやっぱり「悪い」わけだ。

 そもそも「いい、悪い」とかっていう価値判断の源泉である「基準」というのは、どうやって生まれるものかって考えてみよう。これは大胆に言ってしまうと、道徳の源泉にも通じるところだと思うんだけど、人が二人以上集まる、すなわち群れを作るところに「社会」というのが生まれるわけだが、その社会を維持しようとすると、そこに「秩序」というのが生まれるわけだ。そうしてできあがった社会というのは、不思議なことにあたかも社会自身が生き物であるかのように振舞う。その社会は自らの秩序を維持しようという方向に動く。大事なのは「社会の秩序の維持」であって、そのベクトルに合致するものが「いいこと」であり、それを阻害しようとするものが「悪いこと」なのだ。こういうと、まるで個々人の意志とは独立した得体の知れないものに意志を認めるかのようにとられるが、それは社会を形成する集団の質や規模などで変わってくる。ある集団ではひとりの強力なリーダーの意志がその社会の秩序形成に大きく関わっている場合もある。とにかく大事なことは、「~はよい、~は悪い」したがって「~すべきだ、~すべきでない」などの価値基準は、当該社会の秩序維持作用から必然的に生まれてくるものだということ。というのが、オレのここ数日考えていた道徳論の一応の結論なのだ(もっと勉強していけば意見が変わるかもしれないけど…。さらには、ある程度の普遍性を持つような道徳概念の起源が果たしてこういうところにあるのかどうかは自信がない)。

 そういうことで話を戻すと、例えば、いじめられてる子が先生に話すことは一般の大人社会から見れば「よいこと」とされてるが、一方で子どもたちの側からの目で見れば「チクること」であり「悪いこと」になるというわけ!よって、「いじめられる側も悪いか?」という問いは、単にイエス・ノーで答えるべきものじゃなくて、もっと中身を吟味していくべきだと思う。

 ちなみに、こうした「いじめられる側にも原因がある」という考えは、ついつい先生もそして親を含めた大人たちも抱きがちだけど、そうした考え方を押しすすめていくことは、(以前にブログで書いたように)『いじめの社会理論』という本の中でいわれてるところの、まさにいじめられっ子を「適応障害児」として処理しようとする某カウンセラーの「学校共同体主義」につながりかねない(すなわち、「個人的生命存在の権利」より「集合的生命存在の権利」の方が尊いとする考え方)。

 感想をもうひとつ。番組中である教師(30代)の話があった。いじめてる子を会議室に呼んで「やめろ」と言ったが、その後もいじめはおさまらなかった。そこでいじめられてる子と親、いじめてる子と親を呼んで話し合いをさせたら、なんといじめてる子の親が反発してきたという。「うちの子はそんなに悪いんですか!」などと逆に言い返されてしまったという体験談……。

 そりゃあそうだな、と思った。やっぱり誰だって「あなたの子どもは悪人です!」と言われて、「あぁそうですか」と言う親もいないだろうなぁと。(オレに)言わせてもらえば、「そんなもん、悪いんだからゴチャゴチャ言うな!」と一喝しろよ先生!って感じ。与党野党のやり取りじゃないんだ、悪いもんは悪い。「ダメなものはダメ!」でいいじゃないか。ただ、間違ってはいけないのは、決して「あなたの子どもは悪人だ」というわけじゃないということ。「悪人」というのは違う。その子の人間性を悪だと捉えると親も黙っていないし、教育的にも問題ある。全人格を非難してるわけじゃない。その子の現実の行為が、現実にある子どもを傷つけているということだ。あなたのお子さんにとっては「悪い」ことだという認識がないのだろうが、人として生きていくうえでそういう他人を傷つける行為はあきらかに「悪い」ことなんだよ!と、先生が自信を持って言わなきゃ何のための教育者かわからないじゃん。って、そのためにも最初に書いたような「よい、悪い」というものの中身をよくよく考えていく必要があるんだろう。ただ頭ごなしに「普遍的な道徳」を押し付けようとしてもダメなんだろうから。その点で、番組中で誰かが重要な指摘をしていた。子どもにいくらキレイごとを説教しようとしても、当の大人社会で差別・人権侵害・戦争なんてものが平然と行なわれているようでは……と。

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2006年11月 2日 (木)

自殺っていけないことですか?

 今回の一連の「いじめ~自殺」事件。衝撃的だったのは、何といっても子どもが自ら命を絶ったということだけど、それだけじゃない、遺書を残したということ、そして学校・教育委員会の態度!

 そして次々に起こる自殺。奇妙なほど構図が似ている。

 「また自殺だ!遺書は?なんて書かれていたんだ?」みんな、遺書の内容を知りたがる。そこから何かを読み取ろうと必死になったり。「いじめとの因果関係を裏付ける証拠はないか?」

 それから、遺族側VS学校側の対立関係。なぜこうも学校側の態度が似ているのだろうか。世間・大衆からすれば、そういう態度はまさに人々の「北町奉行」心を大いに盛り上げる。「悪代官」役にぴったりだから。と、「不謹慎」な発言はこれくらいにして……。

 ところで忘れてはならないことがいくつかあると思う。例えば、「いじめていた」子どもたち。報道によれば、福岡の事件では、いじめていた子たちは自殺があった後でも遺体を見て笑っていたり、不謹慎な発言をしたりしたということで、それ自体大きな問題を孕んでいるが(のちに両親には謝罪したという)、多くの子たちは大きな精神的ショックを受けただろう。そしてもちろん、その他積極的には関わっていなかったクラスメートたちや、学校の生徒たちの受けたであろう心の傷についても考えていかねばならないことだ。

 だが、何よりも忘れてはならないと思うのは、今現在も「いじめ」をされて、あるいはいじめと感じて苦しんでいる子どもたちがいるであろうことだ。そこには、一方の極として「自殺予備軍」としての潜在的な危険性を有している子どももいるだろう。他方、誰でもが自殺を選択することはないわけで、その子たちはその子たちで出口の見えない現状で日々苦しんでいるだろう。

 批判を恐れずに言えば、「自殺」はもしかしたら窮状にある子どもにとってある意味「救いの光」なんじゃないだろうか?とふと思う。これは、子どもにとって「死」が軽く考えられているという意味じゃない。当人はずっといじめと闘ってきている。ずっと耐えてきている。「死」だって普通に怖いと感じているだろう。でも、毎日が「生き地獄」のように感じられていたとしたらどうか。「生きたい」という思いと「死んだら楽かも」という思いが激しくぶつかり合っていても不思議じゃない。そういう状態を何日も何ヶ月も続けてきて、心身ともに疲れ果てたころ……。誰かが「自殺」したと知る。同じような精神状態に置かれた子どもにとって、自殺した子が「うらやましく」思えることもないとはいえない。親も先生も、そして友人さえも頼れないと思い込んでしまった子どもに、自殺って、どうしていけないことなんですか?」と問われたらなんて答えられるだろう?「生きていれば、これから先きっと素晴らしいことがあるんだよ」、「どんなにまわりの人が悲しむだろうか」、「命というのは、かけがえのないものなんだよ」、「死んだって何も解決しないんだよ」……第三者からすればもっともなことが、果たして当人の心に届くだろうか?

 オレがもし子どもから問われたら、たぶんどう答えてよいかわからなくて狼狽してしまうと思う。

 最近読んだ『自殺予防』(高橋祥友・岩波新書)という本。もし「自殺したい」と打ち明けられたらどうするか、という問題に答えている。抜粋してみる。《 》内が抜粋。( )内は補足。

 《「自殺したい」と訴える人は、本人自身もそう思っていても、実は意識的・無意識的に「自分の方を向いてほしい」「助けてほしい」という真剣な救いを求める叫びも発している。》

 そのことをわかったうえで、《まずは(相手の)話を聴いて(あげて)ほしい。できる限り時間をとって、ゆったりとした感じで、相手がありのままの感情を表現できるようにして(あげて)ほしい》という。時間がかかっても耐えてあげる。沈黙が続くなら、沈黙を共有する。

 逆にいけないことは、《表面的な激励をしたり、叱りつけたり、社会的な価値観を押しつけたり》することだという。

 自殺を思いとどまらせるために、とても参考になると思った。でも、オレ的にはやはりわからない……。子どもが「自殺」に希望を託してしまったら?八方塞がりで苦しんでいる子ども(しばしば視野が非常に狭くなってしまっている状態の子ども)にとって、唯一、確実に逃れられる道だと感じられる「死」。

 話がややこしくなっているけれど、一番にはオレ自身の話の持って行きかたに原因があって、…でもブログであって、論文じゃないから仕方ないけど、一応読んでくれる人もいるかもしれないので、ちょっと整理してみる。

 「自殺って、どうしていけないんですか?」という問いから始まったんだけど、この問いが持つ意味合いがひとつじゃないというところが混乱の元だったりするわけだ。ひとつには、現実に自殺を試みようとしている当人と向き合っている場合(差迫っている状況だ!)がある。もうひとつは、「自殺という行為はいけないことだ」という、いわばその道徳的根拠なんてものについて問われている場合がある。前者の場合に重要なことは、無論とにかく思いとどまらせること!(そのための対処の仕方を本で紹介)。同時にオレが考えたいのは後者のこと。すぐそこまで自殺の危険が迫っているわけではなくとも、漠然とであれ苦しみから逃れるために自殺を思い浮かべている子どももいるだろうから、そうした子どものためにも、オレたちは「自殺っていけないことですか?」という問いにどう答えられるかを考えなくちゃいけないと思う。

 というわけで、またまた話を戻して、今回の一連のことで忘れてはいけない重要なこととしての、現にいじめに苦しんでいる子どもの話。その1は、自殺を視野に入れてる予備軍のこと。その2は、自殺を選択肢に持たないで出口の無いなかで苦しんでいる子どものこと。いずれにしても早急な対応が必要なのに、なんでかなぁ、、、これだけ騒がれていてもまだ「いじめ」を注視していこうと思わない先生もいるようで。そこが一番違和感を感じるところかもしれない。北海道、福岡と続いて世間的にも注目されているにもかかわらず(あれほどいじめについての認識を問われているにもかかわらず)、「いじめがあったという認識はありませんでした」などと答えてしまう先生!!他で起こったのを見て、「じゃあ自分の受持ちの子どもたちはどうだろう?」と点検してみようと何で思わないかなぁ……。

 それどころじゃないのかな?故人について言うのはよくないかもしれないけど、先生自身が自殺してしまうのは……。佐竹高の校長先生はその行為から見ると、とてもまじめな方だったように思うし、生徒からも誠実な人だったという話もあるから、残念でならないけれど、「一命を副えて」というのは、何と言ったらよいのか、複雑な心境だ。それだけ生徒たちの人生の重みを感じていたのだろうと思うが、「命の重さ」、「命の大切さ」を子どもたちにどう教えればいいというのだ!?

 昨日もまた、今度は兵庫県で中学生の死。今はまだ「自殺」かどうかわかっていないが、授業中に「遺書でも書こうかな」と漏らしていたというから、自殺かもしれない。また遺書が出てくるのかもしれない。そしてまた学校側の対応が問題になるのかもしれない。

 最後に、さっき挙げた『自殺予防』という本の中にあった「自殺の直前のサイン」を見て思ったことを書きたい。いくつか挙げると、

  • 感情が不安定になる、突然、涙ぐんだり、不機嫌で、怒りやイライラを爆発させる。
  • 自殺をほのめかす。
  • 自殺についてはっきりと話す。
  • 現実に自傷行為に及ぶ。

 たしか岐阜の女子は、よく突然涙ぐんだり、自傷行為に及ぶこともあった。自殺をほのめかしていたことは、みんな共通していた。せめてこの新書だけでも先生に目を通してもらえればと思うが。

 《自殺は何の前触れもなく起きるというよりは、それに先立ってさまざまなサインが発せられる。 「死ぬ、死ぬという人間は死なない」とよく言われるが、これはまったくの誤解である。自殺者の大多数は、最期の行動に及ぶ前に、特定の誰かを選び出して、絶望的な気持ちを打ち明けている。》誰もが打ち明けられる可能性があるのだから、オレも心の準備をしておかねば。

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2006年11月 1日 (水)

ん!? いじめか!?

 今朝もわがスタンドの前を小学生たち、中学生たちが元気に登校している。いつもの風景。かん高い無邪気そうな声が響きわたる。

 「おい!早く来いよ!」

 「遅せーぞ、トロいなぁ!」

 数人のグループ。ひとりの子どもが全員分のランドセルを重たそうに引きずって歩いてる。オレも昔よくやってたことだ。学校までの退屈な道のりを何とか楽しくしようと(?)思ってか…。子どもはイベントの企画の達人だ。常になにか楽しいことを探してる。仲良しグループの中で「じゃんけん」して、負けたやつがみんなのランドセルを全部かかえる。適当に歩いたところでまた「勝負!」。

 いじめを発見するのは、とても難しいだろう。岐阜の事件での会見で、クラブの顧問の先生が「いじめは見られなかった」などと言っていた。「うざい」「きもい」なんて言葉は日常茶飯事だ。いちいちそれらの言葉に反応してたら大変だ。

 でも、こんないつもと変わらぬ朝の登校風景でも、こんなただのスタンドの店員でも……

 「遅せーぞ、早くしろよ!」という声を聞き、ひとりだけランドセルを「持たされている」姿を見ると、いじめか!?と疑いの目で見てしまう。ピリピリした大人たちの目を子どもたちはどう感じるだろう。

 はやくこの自殺「ブーム」(何ということだ!ブームだ!)が去ってくれないと。

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自殺を思い浮かぶ…?

 ごめんよ、オレは「自殺」って思ったことないから……。

 一度でも自殺を考えたことがある人だったら、きっと気持ちをわかってやれるのかもしれないけどね。でも、やっぱり遺書の言葉を見ると、いてもたってもいられない気持ちになってしまって、そして胸を締め付けられる感じがしてしまって、何かひと言でも言いたくなってしまう。

 「わたしのこと きらいでしたか」 「これで お荷物が減るからね」

 北海道の女子が自殺して、福岡の男子が自殺して、岐阜の女子が自殺して、校長にいじめられた教師も自殺して、校長も自殺して、さらに中学校の女教師も自殺した。先生も自殺しちゃうんだもんなぁ。

 そういうのを見ていて、「わたしももう頑張ったけど、限界かも…」という人、いますか?友達に話してもいまいちわかってくれなかった?「子どもの人権110番」には電話してみた?インターネット上でも話を聞いてくれるサイトあると思うよ。オレでもよければ一生懸命に話を聞くので、とりあえずその旨コメントに書いて下さい。もし近くに住んでいたら遊びに来たらいいかも。あなたたちが生活してる以外にもいっぱい世界はあるということを知って下さい。

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2006年10月20日 (金)

福岡三輪中いじめ事件

 すっかり話題となった福岡の三輪中。叩けばほこりはまだまだ出てくる!?今度は、同中学の女性の先生が、2年前に当時2年生だった女生徒に「あんた、ばかじゃないの」、「頭がおかしい」などと発言し、女生徒はその後ショックで不登校になったという。<元ネタhttp://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/20061018/20061018_023.shtml>

 三輪中が16日に行なった無記名アンケートの回答によると、先生からいじめを受けたという子ども、学校を信用できないという子どもなどが多数いたという。

 子ども間でのいじめ問題が、いつの間にか「先生からのいじめ」へと焦点が移ってしまったような観がある。まったく三輪中はさんざんだ。こんなに汚いところを晒してしまった三輪中はこれからどうなるんだろう。地域には動揺が広がっているらしいが、かといって学校に行かないわけにもいかないだろうし……。先生による生徒いじめは、それ自体看過できない問題だけど、あまり先生の行為を非難し過ぎるのもまずい気がする。企業が不祥事を起こし、その経営陣が非難を浴びて、「今後は消費者の皆様の信頼を取り戻せるよう、経営陣を刷新して心機一転再生に全力を尽くします!」なんてフレーズをよく耳にするけど、学校はそう簡単に「教師陣を刷新しま~す」なんて出来ないしね。かりにも子どもたちを指導する人間のはずなんだから、先生の不祥事なんてのは本当はあってはならないものだろう。心配なのは、あまり先生や学校への不信感が高まってしまうと、子どもたちの教育というのが成り立たなくなってしまうんじゃないかということ。三輪中の先生たちの全部が悪いわけじゃないんだけれど、まぁこれまで学校がとってきた、もろもろの問題に対する不適切な対応のツケが今になってまわってきてしまったのかもしれない。せめて子どもたちが再び先生を尊敬できるよう抜本的な改革をしてもらいたいものだ。

 それにしても、今回立て続けにあらわになった(北海道滝川市と福岡県筑前町の)教育委員会と学校の不祥事、なかでも教委員や校長の発言にあらわれている自己弁護、保身、隠蔽体質と、結果としての情けない対応には、誰もが驚かされたとともに、きっと他のところも同じなんじゃないだろうかという疑念をも抱かせるものだった。他の教育委員会や学校の中には、「明日はわが身」なんて思ってびくびくしているところもあるかもしれない。さっそく文部科学省が全国の教育担当者を集めて会議を開いたようだが、表面だけを繕って「幕引き」を図るようなまねはせず、この機会に徹底的に問題点を追究してもらいたい。オレ的には、いじめをなくすことは不可能だと思っている。前にも書いたように、人間には「異質なものを嫌忌する」心が内在しているように思えることと、学校のような閉ざされた小集団に「押し込められた」子どもたちは、いろいろな点で同調した者同士で群れをつくろうとし、そこに大抵存在する群れに馴染めない者(や、しばしば何の害にもならない者)への迫害行為を共有することで群れの結束を図ろうとする傾向があるように思えるからだ(あたかも外部に仮想敵国をつくって国内の政情不安定から国民の目をそらさせようとするように)。どの学校にも多かれ少なかれいじめは存在するということを前提に、いかにそこでの被害者を救うか、いかにいじめの温床となっている閉鎖的・管理主義的学校組織を改革していくか、いかに教師の質を改善していくかをとことん議論して追究していってもらいたい。それこそが、身をもって訴えた少年少女への供養になると思うので。

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2006年10月17日 (火)

福岡いじめ自殺 全校集会にて

 16日月曜日の1時限目に筑前町の三輪中学で緊急の全校集会が開かれ、先生全員を正面に立たせながら、校長が語ったという内容が、テレビで報道されていた(報道ステーション、ザ・ワイド、NHK)。書き取ったところを掲載してみます。括弧はオレの補足。

 (今回のいじめ自殺事件について、学校の対応がまずかったことについて)「本当にね、服装もきちんとしています。挨拶も『日本一』とまではいかないけれども、『筑前一』ぐらいあるかな。もっとあると思います。で、そんなね、素晴らしい(生徒たちだ)から、先生たちが、ちょっと手を抜いてしまいました」

 (自殺した男児への先生やクラスメイトたちの関与について)「精神的なプレッシャーを与える、あるいは身体的なね、そういうプレッシャーを与えるという風な行為がやっぱりあったんですね」(「いじめ」という言葉は心情的に使いたくなかったらしい)

 「全力で君たちを守ります。全力で三輪中学校を守っていきたいと思います。この言葉にウソはありません!君たちが「助けて~」って言ってる、そういう信号をね、キャッチします。どこからでもキャッチします!これだけ先生がいるんだから、誰に相談してもいいですよ。今いろいろとマスコミやインターネットや新聞で言われてる三輪中じゃないっていうのを知っているのは、君たちとわれわれです。ね」

 おそらくは体育館に全校生徒を集めて話をしたんだろう。ひとりひとりの生徒は一体どういう気持ちで聞いていただろう?すでにテレビで連日のように報道されているから、校長の説明の二転三転ぶりも、そして自殺した児童の元担任のことも、大半の生徒たちは知っているだろうなかでの、この話……。先生に不信感を抱く生徒もいるだろう。それでも先生を信じようと思う生徒もいるだろう。冷めてる子どももいるだろう。想像するに、おそらく聞いていた生徒のなかには、現在進行形でいじめをしている生徒もいるだろうし、いじめを受けている生徒もいるだろう。校長の話はどれくらい生徒たちに届いたのだろう?校長が発したメッセージは誰に対して向けられていたのだろうか。少なくとも、自分たちの保身のことも念頭に置いて話したわけではないだろうと信じたい。

 聞いていた生徒たちの心情を推し量るのはオレには難しい。あえて言うなら、「子どもたち」は頭では理解していなくても、本能的に、あるいは直感的に知っていると思う、どの先生なら相談できるか、どの先生は信用できないか、先生にチクったりしたらその後どうなるか……等を。

 部外者(というか第三者)としてこの全校集会を眺めていて率直に感じたのは、「なんか怖いかも…」ということ。先の校長の話の最後のくだり。学校は、やっぱり閉ざされたひとつの社会集団なのだなぁと。とても不謹慎な言い方でよくないかもしれないけど、極端に言えば、どこぞの宗教団体の洗脳儀式みたいじゃないか!?(本当に言い方が悪くて、学校関係者には申し訳ない) 学校が、問題を学校内だけで「解決」するということは、ともすれば先生(という「権力」)が、そこで起こっていることを「握りつぶす」ということになりかねない。一般に、ある集団を集団として維持しその基盤を強固なものにするためには、できるだけ外部との接触を遮断し、また外部と対立的な状態にするのだろうと思う。オレの以前のブログで書いたいじめの定義付けからいっても、まさにそうした集団の閉鎖性、内向志向が、いじめが発生する外的な、あるいは環境面での要因になっていると思う。この全校集会の模様をテレビで見ていて、そこまで考えるのは行き過ぎかな?

 正直いって、こんな解釈したくはない。今大人の私たちも、ほとんどはかつて小学生だったし、中学生だった。そして、そうした閉ざされた社会で生きてきた。オレにとって、またほとんどの子どもたちにとって、学校はそんなに不快な場所ではなかったはず。少なくともそう信じていた。だから、今の子どもたちにも、あまり自分たちの生きてる場を悪い所だと思って欲しくない。いじめ、自殺、こんな痛ましいことが少しでもニュースにならなくなって欲しい。

 それにしても、学校の先生たちも大変な職業に就いたもんだ。勉強を教えるだけじゃダメなんだから。人間的に立派な人であることも強く求められるんだから。何といっても人を教え導く師なんだから!オレみたいにガソリンスタンドやってると道徳的に非難されることなんて滅多にないのに……。先生だって、プライドあるし、家庭もあるし、自己保身欲だってあるだろうし。でも、(昔のことはわからないけど)自ら「志願」して先生になったんだろうから、そして何といっても「先生」って呼ばれるんだから、そのことの意味をあらためて考えてください。オレも教育実習生としてではあるけど、ほんのちょっと中学生とともに過ごした経験がある。オレを受け持ってくれた先生が言ってた。「先生って、最初の数年は情熱を持ってやるんだけど、年数が経つにつれてやることも決まってきて、慣れが出てくる。いつの間にかぬるま湯の中に安住してしまう。それと、やっぱり一度も社会に出ないまま先生になるから、外の世界の常識がわからないところがある。」なるほど先生を長くやってると、ある部分が鈍感になるのかぁと思った。その先生、今年限りで教師をやめるつもりだと言っていた。一度社会へ出て外の世界を経験してみたいからと。まぁ今になって言えることだけど、「社会へ出る」っていっても、学校だって立派なひとつの社会だし、オレにしたってただ多々ある社会のある一面しか経験してないわけで、結局人が経験できる「社会」って限られてるわけだから、大事なのはいろいろな立場、社会の人と交流するということじゃないかなと思うわけです。

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2006年10月14日 (土)

自殺するなぁ!(ToT)

 またしてもいじめ苦に自殺……。

 「うざい奴等はとりつきます」…憑依(ひょうい)…

 「生まれかわったら ディープインパクトの子供で最強になりたいと思います」

 そういえば、北海道の女児自殺の記事の中で、自殺する子どものなかに、死んでもまた生まれかわれるという考え方があるのが心配だ、というような内容の話をしていた医者かカウンセラーの方がいたっけ。

 今回の13歳男児の遺書の内容を見ていると、なる程そういう傾向があるのかもしれないと思わされる。

 輪廻転生といえば、仏教思想の中での「たとえ話」として一般によく知られているものだと思うけど、最近はやはりスピリチュアリズムがわりとポピュラーなので、人々はそちらの影響を多分に受けているのかもしれない。

 オレ自身は、今のところ霊魂や生まれ変わりを信じてはいない。そりゃあ本当のところはわからないが、少なくともこういう類の問題は、自分で体験してみないことには信じるわけにはいかないのだ。人間の意識も(複雑ではあるが)脳内のイオンの行き来だと思っている……って、まぁその神技の真偽は置くとしても、たしかに、現実問題として、生きていく中で自分の力ではどうにもしようのないような苦難に遭遇したときに、その当人を納得させて、心の痛みを少しでも和らげるためには、宗教も霊的な話も役に立つことがあるとは思う。

 例えば、「なぜ自分ばかりがこんなに不幸な目に遭うんだろう…」という苦悩を持ったとき、「それは霊魂が成長するために、わざと与えられた試練なんだよ!その試練は、実は今世に生まれるに際して霊魂である自分自身が自分に課したものなんだよ!」などと言われ、それで当人が苦しみを軽減され、現状に前向きに生きるようになるなら、それを信じた当人にとっては意味のある「教え」なわけだ。あるいは、例えば例の秋田での母親に殺されたとされる彩香ちゃんだって、「彼女は短い生だったけど、みずからの死によって周りの人たちに命の大切さや、親の愛など、いろんなメッセージを伝えるために生まれてきたんだよ」と意味づけされることによって、悲しみにくれる人々の心を和らげることにもなるだろう。

 このように、霊魂や生まれ変わり説が人の役に立つ場合もあるだろうが、逆にそういう思想が一般的になることによって、現実からの逃げ道として安易に利用されてしまうとすれば、それはとても悲しいことだ。最近、高校生が書いたという小説を読んだ。『もっと、生きたい...』。出だしからインパクトのある内容で、ついつい引き込まれてしまったほどだ。なるほど映画「着信アリ」みたいに、携帯メールがキーとなっている当りはさすがに現代的だなぁと感心もしたり、最終的に「愛」を表現しようという物語りの意図は若いのにすごいなぁと思ったりしたけれど、当たり前のように霊が犯人であるところには多少の違和感を持ってしまった。というか、霊的なものをすんなり受け入れてしまうところが若い人たちの間にあるのかなぁと思うと、ちょっと怖い気がしたものだ。先日、我がブログでも紹介した、『いじめ 14歳のMessage』という優れた本でも、物語り上では主人公の少女は最後には自殺して霊となっている。ただしこの本では、霊となってもむなしいだけだから自殺なんかしちゃダメだよ!という意味が込められているように読めるのだけど……。

 ところで、「現実からの逃げ道としての自殺(死)」というが、果たしてオレが小学生、中学生だったころ、自殺ってあったっけかなぁ?と疑問に思う。よく、いじめの質が変わって昔より苦痛になったとかと耳にするけど、それで自殺が増えたんだろうか?たしかに時代とともにいじめの内容も変わることはあるのかもしれないけど、こと自殺に関しては、昔は単にそういう「選択肢」が知られてなかったんじゃないだろうかと思う。ニュースが取り上げるせいで、自殺の連鎖現象が起きるというのも事実だろうけど、上に書いたように、時代による死ぬことに対する認識の違いが原因になっているような気がする。ぜひ、教育の場では、そうした「死生観」についても突っ込んで話合ってもらいたいものだ。もちろん子どもたちが安易に死を選ばないように教師にはがんばって話をしてもらいたい。親の方でも、今の子どもはいじめによって死という選択肢を普通に持っているのだということを認識しなければいけないだろう。

 論点がズレるけど、今日の終わりにひと言……。いじめられてる子どもたちには「逃げ場」がないのだ!なるほど、家に帰ればいじめから離れられるだろう。地域社会にいる時も、いじめっ子に会わない限りは安心だ。でも、そこは一時的な避難所でしかないのだ。なぜなら、明日になればイヤでもまた学校という閉鎖された(外部と遮断された)集団に戻らなければならないからだ。必ずそこに戻らなければならないとしたら、親にも、近所のおじちゃんにも、先生にも言うわけにはいかないのだ。そういう意味で、学校という閉ざされた空間(子どもにとってはひとつの生きる場である)そのものを問題にしていかなければならないのかもしれないと思う。

 亡くなった中学生のご冥福をお祈りします。

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2006年10月 9日 (月)

いじめって永遠になくならない!?

 「いじめ」って言葉(概念)はよく考えてみるとかなり広い場面で使われるもんだ。小学校とか中学校とかの学校集団だけじゃなく、職場でもいじめはあるし、動物に対するいじめもある。大きなところでは、イラク戦争とか。普通は「戦争」って言うけど、「大国が小国をいじめてる」という言い方もされることがある。小さいところでは「お兄ちゃんが弟をいじめる」とか、「姑が嫁をいじめる」とか。

 他方、「動物虐待」「嫁いびり」とかいう言葉もあるけど微妙にニュアンスが違う。「セクハラ」とか「ドメスティックバイオレンス」とかいう概念もあって、これは通常「いじめ」という言葉で代用されることはないだろう。

 なんだかよくわからなくなりそうだったので、オレなりに「いじめ」が使われる場面を想像しながら「いじめの定義」みたいなもんを作ってみた。

1、反復性がある。日常的にくり返される。

2、ある拘束型の集団に属している(拘束型の集団というのは、その集団が個人の自由意志によって形成されているものではなくて、制度的あるいは慣習的等によって強制的に所属させられるような集団。例えば学校、町内会、部落、会社など。ちなみに自由意志による集団とは友達、恋人、夫婦、愛好会など。)、または集団とは言えなくとも、双方の関係が制度的あるいは慣習的等で固定的なもの(例えば嫁姑)。

3、加害者側の優位、被害者側の劣位という状態があって、それがほぼ固定化されている。

4、被害者側に、軽い不快感程度以上の、精神的・肉体的苦痛が生じていること。さらにたとえ加害者側からの直接の攻撃に遭っていないときでも不安や緊張した状態に置かれていること。

 などと考えてみた、が、もちろんお役所の定義(公教育におけるいじめに限る)もあるわけで、例えばネットを眺めていたら読売新聞の記事があった。

<ネタはこちら。http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/kikaku/088/4.htm

1994年、当時の文部省は初等中等教育局長通知で、(中略)

 「いじめは、〈1〉自分より弱い立場の者に、〈2〉身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、〈3〉相手が深刻な苦痛を感じているものとされているが、個々の行為がいじめに当たるか否かの判断は、表面的、形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うことに留意する必要がある」 >

 いずれにしても、ニュースになった滝川市教委の「殴る蹴るといった暴力行為が認められなかったため『いじめはなかった』と市議会に報告していた」という話には一市民として唖然とさせられたわけで、毎日の仕事に四苦八苦しているオレなんかでも、教育現場に「ひとこと言いたい!」気持ちになってしまったのだ。

 試みに、文部科学省のWebサイトなんぞをのぞいて見ると、「小学校学習指導要領」が掲載されているが、その中の「道徳」の章からいくつか拾ってみよう。

「だれに対しても思いやりの心をもち、相手の立場に立って親切にする」

「互いに信頼し、学び合って友情を深め、男女仲よく協力し助け合う」

「謙虚な心をもち、広い心で自分と異なる意見や立場を大切にする」

「生命がかけがえのないものであることを知り、自他の生命を尊重する」

「だれに対しても差別をすることや偏見をもつことなく公正、公平にし、正義の実現に努める」

 でもまぁ、外から批判するのは簡単だけど、現場の先生はそれなりに苦労もしているでしょう(と信じたい)。

 話が「いじめ一般」から、学校でのいじめへと絞られてしまったけど、考えれば考えるほど難しい問題だなぁと思う。学校でのいじめに限ってみても、いじめって永遠になくならないんじゃないかと思えてきて、気持ちが暗くなったりする。

 学校や会社など、それぞれの集団に固有の問題である一方で、拘束型の集団に共通する問題でもあるし、また、個々人の心理に根ざす問題である一方で、集団力学といわれるように集団であるがゆえに発生する心理にも起因する問題でもある。

 「いじめ」問題は、誰にとっても「他人事」ではないのかもしれない。例えば今現在の自分を考えてみる。身の回りの人間で「あいつは好きになれない」「あいつは嫌いだ」って思ったりすること、案外多い。性格的にでもあれば、生理的にというのもある。異質なものを嫌忌する心理、異質なものを排除したい心理、そういうものが人間性に内在してるのだとしたら、この世から「いじめ」をなくすなんて無理なのかもしれない!

 先日、ブログで紹介した『いじめの社会理論』という本に事例として載っていた。

 ある登校拒否の少女(E子)がいじめられてるといって精神科医のもとを訪れた。精神科医の評価…「依怙地(いこじ)で他罰的」「弾力性の乏しい態度」「クラスや学校に対して協調的な態度がとれない」「クラスへ適応しようという気持ちがないようで、周囲を寄せ付けない」「E子の性格に問題がある」「E子の非協調的な態度をE子にいかに自覚させるかということが課題である」(部分的引用抜粋)

 そういえば小学校の時の通信簿に「協調性」「積極性」「自主性」「責任感」「公共性」「規律性」とかの評価項目があった気がする。たしかに人間社会を生きていくには大切なことばかりだなぁと思う。でも、見ようによっては怖いものだなぁとも思ってしまった。

 最後にもうひとつ。先日、元学校の先生だった伯母と話していた。登校拒否はいいことだ!という意見で一致した。決して逃げではない!つらいいじめ。それなら登校拒否をすればいいと思う。転校も考えればいいと思う。でも、現実にはそう簡単には出来ないのかもしれないとも思った。子どもにとっては、学校に行かないことに対する罪悪感や恐怖感があるんじゃないだろうかと。子どもなりのプライドもあるかもしれない。子どもにとって、学校はたしかにリアルな「社会」なんじゃないだろうか。子どもの狭い視野では、ほかにもリアルな社会があることなんて想像もできないんじゃないだろうかと。表層では「学校を休んだら勉強とか遅れちゃう。みんなとの距離もより遠くなってしまう」と考えてしまっているのかもしれないが、心の奥底には、「生きるべき社会からの転落」、彼らなりの「人間失格となってしまうことへの恐れ」があるんじゃないだろうかと思えてきた。自殺しか道が開かれていない……と。

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2006年10月 6日 (金)

北海道小6女児の自殺

 10月3日付け朝日新聞の記事が手元にある。

「みんな、私のこときらいでしたか?」とても胸が苦しくなる。

 オレにとってタイムリーな記事だった。ここのところずっと秋田の2児殺害について考えていた。彩香ちゃんや豪憲くんの人生って一体どういう「意味」があったんだろう。何のためにこの世に生まれてきたんだろう。わずか9年間という時間を生きるために……。

 そんなことを日々考えているうちに、焦点が鈴香被告の方に移っていった。じゃあ鈴香のこれまでの人生って一体何だったんだろう、と。当然思い至るのは彼女の生い立ち、とくに「いじめ」を受けていたということだ。有名な卒業文集の寄せ書き。それらを読むにつけ、オレはいたたまれない気持ちにさせられた。

 そんな関心から、ここ数日、いじめに関する本を読んだりしていた。

 この本は、実際にいじめを受けていた少女がその体験を小説にしたものだ。ページをめくるごとに胸が締め付けられる思いだった。あの松井選手もトレーニングを脇へ追いやってまで読みふけったという。オレもいっきに読んでしまった。小説って、ある意味エンターテインメント性が売りだったりするが、この手の本は読むのがつらい。胸を押しつぶされそうになりながら読まなければならないからだ。いじめを受けた経験のある人はまた別の感想を持つのかもしれないが、オレの場合は……

 オレはいじめられた経験を持たない。とはいえ人間関係に悩むこともなく平穏な学校生活を送ったというわけでもない。小学校6年間は、ある一人の人物の影に常に怯えながら過ごしてきたし、とても仲の良かった友人と、仲が良かったが故の嫉妬心あるいはライバル心がために、誰よりも悪い人間関係を持つことになって数年間過ごしたこともあった。そこで経験した「完全無視」というつらさは深くこの胸に刻まれている。(余談だけど、「無視」するという行為は、実はそれだけ無視する相手を意識しているということでもあると思う。その意味では、いじめによってまるで自分が「存在していないかのように」扱われることがあるが、実は誰よりもその存在を自覚されていることでもあるのだ。まぁ、だから何!?ってことだけど……)

 オレの経験で上述のことよりも何よりも問題なのは、オレがいじめの加害者だったということだ!!そう、40歳を迎えようというオレに「いじめ」の問題を突きつけてくるのは、そしてオレを「いじめ」の問題に引き寄せるのは、他でもないオレ自身の過去なのだ。数十年たった今でも過去はオレに問題を投げかけてくるのだ。加害者としての責任は消えない、すなわち過去に責任を負っているということ。

 いじめを始めた張本人ではない。でも、オレもみんなと一緒になってその人を「汚いやつ」と思っていた。その人の近くには寄りたくなかったし、何かのことでその人にさわってしまうと、「うわぁ~さわっちゃったぁ~」と言って、ほかの人にその指をなすり付けて、自分は「バリアー」を張った!「バリアー」を宣言することで、以後自分はその「ばい菌」を寄せ付けずに済むというわけだ。そういうわけでその人は、常にみんなから距離を(物理的な距離を)置かれていた。「いじめ」の形態は人により、場所により、時代により様々だ。今よく耳にするのは、「机の上に花束を置いて、死んだことにする」だとか、「その人が話しかけても、まるでその場に存在しないかのようにムシする」だとか、または肉体的暴力を振るう、あるいは今回の女児のように「キモイ」とかのひどい言葉を言われる等々。オレのクラスの場合には、上で言ったような「汚い人扱い」が中心だったと記憶している。クラス全員だったか、学年全体だったのかは覚えていないが、少なくともその人と仲良く付き合っていた友だちはいなかったように思う。

 たとえ自分が先頭に立っていじめてたわけじゃないとしても、その責任は免れない。たとえ当時はひどいことだという認識をもってなかったとしても、その責任は免れない。ということを前置きしたうえで言うが、今にして考えると、その当時(小学3年生頃だったと思うが)、その人を「汚い」と本気で思っていた!自分のしている行為がどれだけその人を傷つけていたかという認識はたぶんなかった!それはごくごく当たり前のことだった!まったく今考えると不思議な感覚だと思う。いくら子供だったとはいえ、そしていくらオレが未熟な頭の持ち主だったとはいえ、なぜクラスメートのひとりを寄ってたかって「汚い!」と言えたのだろうか?なぜこれっぽっちの疑問も抱かなかったのだろうか?

 鈴香被告のいじめられ体験について考えているなかで、そのオレ自身の加害者としての体験を思い起こしていた。そして、とても胸が苦しくなっていた。あの子は今どうしているのだろう?あれから(小学校を卒業してから)どこへ行ったのだろう?あの体験が彼女(女でした)の人生にどんな影響を与え、その体験によって人生はどういう方向にいったのだろう?(ちなみにオレは、このいじめ被害に遭っていた女性についてはこれまでも何度か考えたことがあった。)

 そして、今回の鈴香被告の事件で特に考えたのは、「鈴香はたしかに悪いことをした。彼女は責められねばならない。でも、じゃあ過去に鈴香をいじめていた人間たちは何の責めも負わなくていいのだろうか?」ということだった。いじめが被害者の人生にどんな影響を与えたのかを無視して、ただ現在の彼女の罪だけを見て「鬼母」だとか言うのは何か間違っているような気がした。殺された彩香ちゃんたちへの切ない気持ちとはまた別に、我々には考えなくちゃいけないことが他にもあるんじゃないだろうかと思った。

 そんなこんなで、自分自身の過去と向き合いつつ、そのために抜けている「被害者の視点」を感じるべく、手に取ったのが上で紹介した本だった。もう一冊読んだのは、これ。

 この本は、数名の作家が「いじめ」をキーワードにそれぞれの小説を綴った短編集だ。これもまた読んでいると胸を締め付けられた。

 紹介ついでにもう一冊、読み始めた本があるので。

 まだ途中だ。なかなかサラッと読める本ではない。専門的な言い回しとかがあって難しい。でも「目からうろこ」な内容が詰まっているので、じっくりゆっくり慎重に読み進めているところだ。それと並行してオレ自身のオリジナルいじめ論も考えているが、考えれば考えるほど、いじめという問題が難しいことに気付く。ここではとりあえず理論的な話は割愛するが……。

 

 そういうことで、ちょうどオレの中でいじめについて沸騰し始めていた時に、北海道の小6女児が遺書を書いていたという記事が新聞に掲載されたわけで、まさにタイムリーだったのだ。女児の残した遺書の一端を読むだけで、何ともいえないやるせない気持ちになる。そのなかで、加害者となっていたクラスメートたちの責任について論じることもできるかもしれないが、これはそう簡単なことではない。なぜならば、学校という場で生きる子供たちの間には、大人社会とはまた違った不思議とも思えるような「秩序」があるらしいのだ。そして、単純に大人社会の「善悪」という基準を当てはめることもできないようなのだ。まさに、オレ自身が小学生だった時に何の疑問も持たずにいじめをしていたように、大人が考える「善悪」と子供たちの間で共有されている「ある秩序」との間にはギャップがあるのだ。

 むしろ問題とされるべきは、教育委員会などの方だ!!こちらへの非難、批判の声はネット上でも十分すぎるほど目にする。そういう社会的批判の声に押されたのか、昨日(10月5日)になって教育委員会は女児の書き残した「手紙」を「遺書」だったと認めたうえで、同日夜に市長、教育長、校長らが女児の遺族宅にお詫びに出向いた。

 現場の先生たちにも、きっとそれなりの苦労もあるのだろう。いじめを発見しても、どう対処してよいかわからないとか、下手に刺激してエスカレートさせるんじゃないかとか、あるいは子供たちの独自の世界との間にある壁に自らの限界を感じてしまったりとか。まぁ無理もないか。すべての先生が「金八先生」にはなれないだろうし。教師が必ずしも人間的にも(人格的にも)先生だとは限らないし。

 それでも!それでも、敢えてオレは聞いてみたい。「先生、率直に言って今回の女児自殺についてどう思ってるんですか?」と。そして、キョウイクイインカイの人たちにも同じように聞いてみたい!「なんでそんな批判を浴びるような発言が出来たんですか?立場?そうですか、わかりました。では、オフレコでいいから教えてください。率直に言って今回の女児が遺書を書いて自殺したことについてどう思ってたんですか?本当はどう感じていたんですか?」「たとえば、この14歳の子が書いた体験小説を読んで、どう思いますか?」……と。

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