2009年7月21日 (火)

村上春樹『1Q84』(その2)ネタばれありまくり!

 村上春樹的なるものがあって、それをよく知っていたとすれば、こんな感想は出てこないのかもしれないけど、残念ながらそんなものはオレは知らないから、あるいは幼稚な読書感想になるかもしれないけど、あえて率直な感想を書いてみた。

 前回のブログでは書ききれなかったことについて、今回触れてみたい。

ふかえりに関して

 ふかえりと天吾の「ギリヤーク人」の話。その時のふかえりはとってもかわいく思えた。ふかえりの言葉づかいもとても好きだった。結局天吾とふかえりの関係は中途半端で終わってしまい、後味が悪かった。ふたりが「パシヴァ」と「レシヴァ」の関係であったことは驚いたが、じゃあ天吾はどういう意味でそうであるのか。反リトル・ピープルとしての意味でなのだろうか。それならそれでよいが、ならばふたりの関係はもっと重要視されてもよいと思う。でも終盤ではあくまで天吾と青豆の「愛」の物語となってしまって、ふかえりの存在が急速にしぼんでしまった印象があり、残念。オレとしてはふかえりと天吾のハッピーエンドが理想だったなぁ。

感情移入に関して 

 感情移入が一番激しかったのは、後半に青豆が「さきがけ」のリーダーを消しに行く場面。かなり怖かった。出来るなら読み進めたくないと思った。もちろん主役だから最後は任務を完遂するだろうとの予想はあったが、その過程でリーダーという超人にどんな危険な目にあわされるのだろうかと思うと、正直、「その時」が来ないでほしいと思った。物語としてはあり得ないが、途中で青豆の気持ちが変わって「今回のミッションは中止する」なんてことにならないかなぁとさえ思った。

 「その時」の場面での緊張感は相当のものだった。ふたりがやりとりした話の内容については一度読んだだけではよく理解できないものだったが、ともかくリーダーが予想に反して立派な人物だったことが物語の好感度をさらに高めてくれた。

 

超自然的なものに関して

 冒頭から非常にリアリティにあふれる物語だった。最初に乗ったクラウンのタクシーから、首都高速の描写、青豆の挙動のひとつひとつ、部屋の描写、あゆみとのやりとり、もちろん天吾の方も、登場人物同士の会話の一言一句、感情、思考の流れまで、すべてがリアルでまったく違和感を感じさせない。そうであるからこそ、月が二つあることの非現実性が際立っていた。青豆の記憶に一部おかしな点があることもまた(あけぼの事件などを知らないということ)、そこにあるに違いない何らかの非現実性を思わせ、知的好奇心がめばえ、物語に引き込まれていった一因となっていた。

 ところが、リトル・ピープルと空気さなぎ、そして「さきがけ」のリーダーの特殊な能力が出てきてしまったために、いくらか物語の品質が劣化してしまった、あるいは安っぽくなってしまった感じがする。あそこでリーダーが重い時計を持ちあげなければ青豆の気持ちに変化をおこすことは難しかったのかもしれないが、でもリーダーが自分が青豆にアイスピックで殺されることを「知っていた」というだけでも十分ではなかったか。リトル・ピープルと空気さなぎの話はふかえりの書いた物語のなかだけにとどめておいてもよかったのではないか。あるいはマダムに保護されていたつばさの口から出てくるだけでよかったのではないか。

 

性的な描写に関して

 「この本いいよ~!ぜひ読んでみて!」と多くの人に言いたくても言えなくしてしまうのは、性的な描写のエグさだ。人間のリアルな側面でもあると言えばそれまでだけど、ちょっと嫌悪感を持ってしまう。その数の多さもさることながら、たとえば青豆が鏡の前に立ってチェックするのがどうして乳房と陰毛なのだろう!?女性じゃないから自信はないけど、たとえばお腹まわりだとか二の腕だとかふとももだとかではないの?ふかえりと天吾にしたって、「ベッドで重なり合った」でいいじゃん!ふかえりのイメージを壊さないで~!(笑)

 

煮え切らない謎の数々に関して

 いろいろな謎については前回のブログで書いた。重複することもあるかもしれないけど。

 小松がなんらかの方法で消されたのはいいでしょう。天吾の愛人である人妻が消されたことについては、もう少し内容を知りたかったけど、まぁいいでしょう。

 戎野先生…彼はたぶん消されてないのだろうが、どうも役者としては中途半端な役回りじゃないかな。タマルはいいでしょう。あゆみも十分。でもマダムは?彼女は一体どんな裏がある人物だったのか少し気になる。資金力も含めてそれなりに力があるようだけど、そのわりには最後にきて力の程度が弱すぎる印象。

 謎といえば、「さきがけ」の資金源はどうなった?もしかしてオレが見落としていたのか。

 とはいえ、これらの謎についてはさほど本質的なものではないからいいけど。

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『1Q84』村上春樹(前半はネタばれなし)

(途中からネタばれあり!その前に告知しますので!)

 毎度書いてるように、オレはほとんど小説は読まない。村上春樹は大昔に『ノルウェーの森』を読んだきり。その内容も覚えてないくらい。ただ、当時なんとなく「なんかふわふわした小説だなぁ」とか「こういうのが新しい時代の小説なのかぁ」と感じたような気がする。

 

 最近は本屋で立ち読みしてみて、どこか心に“引っ掛かり”ができたときに限って読み始めてたんだけど、この本は単なるミーハー的関心で読み始めた。つまりどこの本屋さんでも売り切れてた(くらい人気があった)から!

 

 結局読了するまで3週間もかかってしまった!

 文章が読みにくいというわけじゃない。むしろ非常に読みやすい。字面をそのまま理解する分にはよほど理解しやすい。やたら多く、そして驚くほど上手い「比喩」には多少うんざりすることもあったが、読んでいて「ん?」と首をひねるような表現はまず行き当らなかった。

 ただ単純に、、、つまらなかった!!

 やはり自分自身が興味があるから取り組んだというのではなく、まわりが騒いでるからきっとすごく面白いんだろう…という「よこしまな」動機で取り組み始めたからだろう、、、と自分では思っていた。

 だから1ページ目を読み終わる前に何度もあくびが出てしまい、そのたびに本を閉じた。数ページ進むごとに自分に問いかけていた、、、「このまま我慢して読み進めるべきか」と。

 あくまで読書ってのはオレにとっては「気晴らし」なんだから、やはり自分が読んでいて面白いと思えるものを読めばいいじゃん!話題があるという理由だけで飛びついたオレが浅はかだったんだ!

 

 そんな気持ちを抱えたまま200ページくらい読み進めた。あいかわらず後押ししていたのは「話題の本」なんだから!という気持ち、、、

 

 ところが!!

 戎野先生の長い語りが始まったころから変化があらわれた。

 「むむっ!?」

 「およよ!!?」(およよ…はないけど)

 

 気が付いたら270ページあたり。。。

 それからはもう全力で突っ走った!!ひたすら読みふけった!!

 どんどん引き込まれていった!!!

 あっという間に2冊読み終わった。

 

 

 とまぁ、ここまでは、「読んだ。面白かった」というだけの話。

 問題は内容、、、なんだけど、これがまた何と言ったらいいか、、、

 「難しい、、、」

 

 この手の小説ってのはどう読んだらいいのだろう?

 今まで読んできたそこらへんの小説はそのまま読んで理解したとおりでよかった気がする。「ハラハラしたぁ」、「こんな心理状態ってわかるわぁ」、「そっか、そういうことだったのかぁ」、、、とか。

 でも、この小説って、「??(謎)」が多すぎる。

 小説の書き方として、最後に読者に投げ出してしまうようなやり方、いわゆる余韻を残すとかもあるし、最初に疑問などを投げかける、いわゆる伏線みたいなテクニックもある。

 この小説は、振り返ってみれば最初から綿密に計算された伏線が散りばめられているようだ(ヤナーチェックのシンフォニエッタを聞いたとき「ねじれ」たような感覚を持った…あたりからすでにキーポイントっぽい)。とくに文中に傍点が付されているところや、太字で書かれているあたりは注意が必要なようだ。

 そして最後の部分も、「まじかよ~!」ってくらいもやもやした気持ちで終わらせられる。極上のステーキを食べていて、最後まで残しておいた一切れをまさにいただこうという間際に店員に片づけられてしまったときのように、、、

 この小説を読み込むための本も出てるくらいだから、突っ込んで深読みしていけばそれなりにずっと楽しめるんだろう。「○○○を100倍楽しむ本」とか「○○家の謎」みたいに…。読むたびに発見もあるからくり返し読んでも楽しめるだろう。

 だけど、オレとしてはそんなに楽しんでいる時間もないし、もう少しちゃんと書いてもらいたかったかなぁ、、、

 

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これからは、ネタばれあり!!

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《 心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。心から外に出ないものごとは、そこに別の世界を作り上げていく。 》

二つの月の姿も「空気さなぎ」の形も天吾の頭の中から生み出されたもの。それが天吾や青豆の生きている世界でその通りになっているというのは?まさか物語全体が天吾の小説の中の話だなんて落ちじゃないだろうけど、心から一歩も出ていないということは、天吾は小学校のあの日から進んでいないということ?

なんで最後の「空気さなぎ」の中身が小学生の頃の青豆の影なのか?その時、青豆はもう自殺したあとなのか?そもそも青豆は「本物」?

《 「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、「そうではなかったかもしれない」現在の姿だ。 》

なんかすごく難しいこと書いてるようで、まったく理解不能。

「こうであるかもしれない」未来をジョージ・オーウェルは書いた(最近、ハヤカワ文庫から新訳版が出たのでミーハーな関心から読んでるとこ)。それに引っかけて、そうであったかもしれない1984年という過去を書いたというのは面白いけど、どうせなら「そうであったかもしれない」現在を書いてくれてもよかったのかなぁと思った。それだけ。

 

 戎野先生はその後どうなったのか?ふかえりはどうなったのか?そもそもふかえりは実体だったのか?ならばなぜ生理がなかったのか?(彼女は父と交わっていなかったはず)

 なぜ青豆が再び訪れたときそこに非常階段はなかったのか?あの最初のタクシー運転手は何者で、あの「見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです。」という魅力的な言葉の意味はなんだったのか?

 天吾の発作はなぜおさまってしまったのか?いったいあの発作時に見たことは現実のことだったのか?

 リトル・ピープルはいるのか?(あはは!!)オレはいると思う!!!

 いろいろ疑問があって、それを考えながら読むのも面白いだろう。「解説本」みたいなのを買って読んでみるのも楽しいだろう。

 でも、これ以上この小説に関わっている時間はない。村上春樹マニアになりたいとも思わない。

 でも、いつかゆとりができたらもう一度読んでみたい。

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2009年4月 9日 (木)

2009年の本屋大賞→湊かなえ『告白』

 たしかに面白かった。『悼む人』の次に読んでいて、ちょうど読み終わって間もない頃の一報だったのでかなり納得してしまった。

( → http://mainichi.jp/enta/mantan/book/news/20090406mog00m200046000c.html )

 なにがすごいって、この『告白』って本が作家デビュー作品なんだってねぇ!!それでいきなり本屋さんが読ませたい本の一位に選んじゃうんだからねぇ。

 というわけで感想ですが、、、

 以前から本屋の正面に積まれていて気にはなっていたんだけど、パラパラとめくってみて「ん、学園モノかぁ…」と、いまいち興味がわかなかった。ところが、これでもかというくらい本屋側がアピールしてるもんだから、とうとう根負けして買ってしまった次第。

 いやぁ、失礼しました。読んでみるといきなり引き込まれてしまったではないか!小説を評価する観点はいろいろあるだろうけど、それでいえば構成のうまさなのかなぁ。けっして人間的な深みを経験できるとは思えなかったけど、ごく普通の人間の感覚をうまく拾い上げて巧みに表現してるなぁという感じ。同一の出来事を章ごとに違う人間の視点からみごとに描いてると思う。各々が直接気持ちをぶつけ合い交換し合うということがないのが、なんとなく歯痒い気もするが、まさに各人の「告白」(独白)という形でストーリーが展開していくわけだから仕方ないね。

 とかく小説というと何か特別なうんちくを語るのが当然ってとこがあったり、専門的な知識がひけらかされることも多いと思うんだけど、この本はとくにそういうところはなく、いってみれば誰でも普段から感じたり考えたりしてることを文章化したものという面はある。それでいいと思うし、誰でも書けそうだけど実はなかなか書けないものでもあると思うんで。

《 本の購入はこちらから→ 告白

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2009年3月10日 (火)

『悼む人』

 滅多に小説は読まないけど、たまに読む場合は、最初の数ページを立ち読みして、何となく惹きつけられると感じたものに限る。『ループ』(鈴木光司)を本屋で立ち読みしたとき何となく惹かれた。数日経っても気になって頭から離れなかった。それで本格的に読んですっかりハマってしまった。『ダヴィンチ・コード』も。『ランドマーク』(吉田修一)も。最近では『ラッシュライフ』(伊坂幸太郎)。

 

 『悼む人』はよく本屋の店頭で見かけたが、あの妙に首の長い表紙絵に違和感を覚え、さしたる興味も持っていなかった。

 最近小説を書くことに興味を持ち、まずは賞をとった有名どころでも読んでみるかと思っていたところ、たまたま文藝春秋社の『オール読物』誌に直木賞受賞作として『悼む人』が掲載されているのを見かけ、「おっ、940円で読めちゃうならお得でいいじゃん!」とせこい気持ちで購入した。さっそく読み始めてみると、まぁまぁおもしろそうじゃん……と思っていたら、第1章が終わったところで、<『悼む人』は長編のため、プロローグ、第一章を抄録しました>とあるではないか!

 「やられた~!」

 ここまで読んで、いまさら後には引けないじゃないかぁ!!

 坂築静人(さかつきしずと)という<悼む人>って何なんだ!?どんな人間なんだ!?……なぜ「悼む」旅をしているんだ!?まさに、作者はいったいこの人物が死者を悼むことになった「理由」をどう説明するんだろう?

 すっかり虜にさせられてしまった!!買うしかないだろ、『悼む人』。。。

 作者の筆力はほんとに凄いと思った。情景描写もそうだが、登場人物がとっても活き活きと描かれ、おのおのの人物像がはっきりとした形で頭に焼き付けられる。エログロネタ専門のフリーライター、余命わずかな静人の母、夫を刺殺した女、この三人の視点が交互に描かれながら物語がすすむため、ともすれば感情が散漫になりがちな形式なのに、それぞれが(歩んできた人生も含めて)ていねいに描かれているためか、場面ごとにすんなりと感情移入していけるのはまさに作者の実力の高さの表れだろう。

 なんといっても圧巻なのは、まさにチンピラに殺されかけている者の視点を追体験できる場面、、、思わず、蒔野(フリーライター)と共に「……<悼む人>よ!……」と叫びたくなる、<悼む人>の存在を心から求める、<悼む人>の存在する理由に自ずと気付かされる!!

 胃がんの末期で余命いくばくもない静人の母、、、その最後の瞬間までこれでもかというくらい克明に描かれる。しかも死に行く者の視点から!!オレ自身の母の死とあまりにも近い、こわいほど、、、1月7日、8日、9日、10日、「もうすこし!!あと3日がんばってくれ!そうすれば全くオレの母そのままだ!」静人の母は残念ながらオレの母より2日早くこの世を去ってしまったが、、、

 もちろん、物語の核心、テーマは、、、「死」、、、ひとりひとりのかけがえのない「死」。それは同時にかけがえのない「生」であるが、その「生」のなかでもどこをクローズアップさせるかによって、あるひとの「死」の意味づけがいかに変わってくるか!どんなに波乱万丈の人生であっても、どんなに短すぎるほどの人生であったとしても、、、

 「この人は誰に愛され、誰を愛していたでしょうか。どんなことで人に感謝されたでしょうか」

 何度も思い出されたのは、あの秋田で実母に殺害された「綾香ちゃん」だった。あの事件以降、たびたび考えたことは、、、「いったいこの子の人生って何だったんだろう?この短い人生、この子は何のためにこの世に生まれてきたんだろう……」

 いろいろな人生があり、その死に対してはいろいろな評価が与えられる。「あいつは本当にいいやつだった」、「あいつの人生は最悪だった」、「あいつは最後まで悪人だった。殺されて当然だった」、「惜しい人を亡くした」……。しかし、どんな死を迎えた人にも共通して<悼む>術があるとしたら。あらゆる死を同等のものとして扱えるような項があるとしたら……

 蛇足になるけど、最後にオレ的にちょっとだけ残念に思ったのは、まず蒔野。当初はずいぶん根性のすわった大人の男という印象だったが、義母との絡みやチンピラに襲われた場面あたりで急速に弱々しい男になってしまった点。

 それから、胃がん末期の母。娘と外出できるほどの体力はちょっと現実離れしている気がするが。

 それから第八章の最後、、、

「空が、雲が、ふだんより近くに感じられた。もしかしたら……と思った。(わたしが、近づいているのかもしれない。)

ここで天国へ旅立ってくれるのもひとつでは、、、と。

《 本はこちら→ 悼む人

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2008年12月14日 (日)

『資本主義はなぜ自壊したのか』

 中谷巌著『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル)、面白かった。

《商品はこちらから→ 資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言

 発行年月日は2008年12月20日。。。なんだけど、今日はまだ12月14日だよ。あれ?ま、いいや。発行年月日ってそういうもんなのだろう。

 どこが面白かったかといえば、日本の「構造改革」を積極的に推進してきた役者のひとりである著者が、その改革の結果、日本のよき「一億総中流」社会が壊れてしまい、人々の関係が冷たくなり、格差社会となり、ワーキングプアが増え、社会不安が増大したという現状を考えて、過去の自分の「新自由主義」的考え方が悪かったと「ざんげ」した書だという点。

 市場原理主義だとか、新自由主義、日本においてそれを強力に推し進めてきた「小泉・竹中構造改革路線」に対する批判でいえば、内橋克人『悪夢のサイクル』とか、森永卓郎『こんなニッポンに誰がした』なんかを読んで「うん、うん!」と激しく共感していたけれど、いわば小泉改革路線を下支えしてきたような人がその考えを改めた(本人いわく、「転向」した)うえで書いた本なので、また違った趣があって良かったと思う。

 しかも、この時期にあってタイムリーであったことも刺激的でよかった。リーマンショック以降の話まで出てくるのだから、、、そのためか、じっくり書かれたものではないらしい。そりゃそうだ、つい最近の出来事を話題にしているのだから、経済学の専門家ではあっても短期間に詳細で緻密な「お堅い」話を書き上げるのは時間的に無理があるだろう。逆にそのためにオレみたいな素人でもたいへん読みやすい。たとえばサブプライムローンの本質的な部分についても…

 《 サブプライム・ローンとは結局のところ、アメリカ系証券会社のエリートたちが、住宅ローンの対象になりそうもない貧困層を食い物にして、自分たちだけが儲けるために作られたかなり「いかがわしい」金融商品であった。 》 (P.26-27)

 といった感じで非常に簡潔に本質を話してくれる。

 著者自身もアメリカ留学によってすっかり感化されたという「新自由主義」思想のある種の「うさんくささ」に対して、なぜ高名な経済学者たちからもっと真剣な議論が出てこないのか!という点についても…

 《 おそらく、新自由主義思想というのは単に学術的に、あるいは論理として「正しい」ということで支持を集めたというよりも、一部の人々、はっきり言ってしまえばアメリカやヨーロッパのエリートたちにとって都合のいい思想であったから、これだけ力を持ったのではないか。 》 (P.61)

 《 …政府の干渉が減り、規制が緩和されたマーケットが実現すれば得をする勢力がいたからこそ、これだけ「自由競争の神話」が広がることになったのだと考える。新自由主義思想は金融や投資の世界に暮らす人々にとっては、まさに歓迎すべき思想であったのである。その意味においては、アメリカ経済学や市場原理主義とはエリートたちの「支配のツール」にすぎないとさえ言えるのではないだろうか。 》 (P.112-113)

 唐突だけど、オレもいってみれば「中産階級」に属した人間だ。今現在は決して余裕のある生活ではないけど、いわゆるワーキングプアと呼ばれるほどの人間ではない。けれどあきらかに昔の(子どものころの)日本の「中流」的風景へのノスタルジーはある。今は…周りを見ても、とくにお客さんと日々接している立場からすると、なんとなく「さびしい」気分になることがある。なんで日本人はこんなに「せこく」なってしまったのだろうと思う。ガソリンスタンドで働いている経験からいえば、1円、2円の違いでうるさく言われることが多くなり、そのたびに「安売り店と比べて高いと言われるけど、よく考えたら満タン給油したってたかだか総額で100円くらいの違いじゃないか。あなたはジュース1本買うのを躊ちょする生活してるの?」と愚痴りたくなる。もちろんこの不況でなるべく生活費を切り詰めている気持ちもわかるし、そういう時代だからこそ数円安いだけでも得した気分になる消費者心理もわからなくはない。だけど、、、どこか精神がすさんでいるように感じられてならない。オレはどちらかといえば「武士は食わねど高楊枝」的なものに美的感情を抱く方だから余計そう感じるのかもしれないが、、、

 そういう意味でも、著者の「古きよき日本人」論には共感を覚えるし、今の現状を嘆くあたりにも共感を覚える。そして次のような話にも…

 《 島国社会に長く暮らしてきた日本人ができるのは、せいぜい地道に正直にモノを作ったり、誠実第一で商売して他者の信頼を勝ち取っていくという、長期的な戦略でしかない。たしかに、そういった日本的な生き方は、けっして派手でもないし、スマートでもない。…(中略)…我々はたとえ不格好で不器用であっても、覚悟を決めて、長期的に信頼を勝ち取るという方向を今後も維持すべきではないだろうか。 》 (P.319-320)

 もちろん、著者は日本の特殊性ばかりを美化して人間としての普遍的価値については考えてないというわけではない。あくまでこの日本をどうすべきかという観点からの話であると理解する。

 また「構造改革」をすべて否定しているわけではない。無駄な官製事業をなくしていくことには賛成しているし、市場メカニズムの利点もちゃんと述べている。ただ、少なくともオレの印象では、安倍元総理がしきりに言っていた「経済成長の果実を国民に還元できる」などというのは幻想であり、新自由主義的発想ではますます格差は拡大していくとキッパリ言っていると思う。

 痛快なのは、いまだに「小泉構造改革」信者が言っている《 貧しい若者がいるのは、日本社会の改革がまだ中途半端だからだ。もっと構造改革を進め、所得税の累進課税もさらに緩め、やる気のある人にインセンティブを与えれば、雇用も増えるから貧困も減るはずだ 》 (P.310) という議論を引いて、それに意見をぶつけているところだ!

 最後のころの著者による「日本再生への提言」の章もなかなか新鮮な話でよかった。税制改革のやり方、社会保障制度の拡充策、そして消費税の「逆進性」を解消する「秘訣!」である「○○○付き消費税」構想(あまりネタばれ書くとやばそうなので、気になったら読んでもらうとして)、北欧の高福祉高負担の内実についてなどなど、、、

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2007年10月 6日 (土)

吉田修一『ランドマーク』

 先日、吉田修一という作家の小説を読んだ。

 『ランドマーク』(新潮文庫)

 埼玉県の大宮に建設中の超高層ビル「O-miya スパイラル」に関わる二人の人間模様を描いている作品。ひとりは鉄筋工の隼人。ひとりはこのビルの設計士で犬飼という。立場の違うこの二人の人物の日常を鮮やかに描き出している。

 オレが興味を持ったきっかけは、この役者の設定にあった。こういってはなんだが、「一般に」鉄筋工は低賃金の肉体労働者、設計士は比較的高賃金の頭脳労働者とイメージされる。ただ、こういう区別はどちらかといえば低賃金労働者側からの「想像」と、あるいは極端な言い方では「ひがみ」とみなされることが多い。当の設計士などに言わせれば、「俺たちだって肉体労働者だ!」と言うかもしれない。どちらの言い分が正当であるかは結局、どういう基準を設けるかによるのかもしれない。いずれにしても、オレはそこに「格差社会」のひとつの縮図をイメージし、そこで作者によって語られることの何らかの「意味づけ」に興味を持って読み出した。

 読んでみて感じたのは、オレってこういう文学(?)というのか芸術作品(?)というのかに対する感性が無いのかも!?ということ。読み終えてみて、率直に言って何が言いたいのかわからない!過去に芥川賞とかナントか賞とかをとってるのだから、きっと何かがあるのだろうとは思うけど、それが何なのかがまるでわからない。この小説のどこがどう優れているのかがわからない。例えるならば、ピカソの絵のどこが優れているのかがわからないようなものだ。だからきっとオレには芸術をわかる感性というのが無いんだろうと思うしかなかった。

 小説のなかで、主人公である二人の人間はとくに交わることがないままだ。最初の場面で一瞬お互いが同じ空間に居合わせた記述があるだけ。直接の接点はそれだけだった。

 接点がない、、、もしかしたらこれがひとつのテーマなのだろうか?

 そもそも単純に考えて、この小説の背景になっている「O-miya スパイラル」というビルがキーワードであることはオレにもわかる。というか本の裏表紙に書かれている紹介文がそういっている。

 「大宮の地にそびえたつ地上35階建ての超高層ビル。それはフロアがねじれながら、巨大な螺旋を描くという、特異な構造をもっていた。設計士・犬飼と鉄筋工・隼人、ふたりの毎日もビルが投影したかのように不安定になり、ついにゆがんだ日常は臨界点を超える。圧巻の想像力と、並はずれた筆力で描く傑作長編。」

 スパイラル、螺旋、ねじれ、不安定、ゆがみ……

 これらがキーワードとして小説全体を貫いているのだろうとは容易に想像がつく。そういうものとして人物たちの日常が描かれているはず…

 しかし、読んだ限り、どこがねじれてるのかがわからなかった。犬飼が不倫関係にあるということか?女を抱きまくっていた隼人が貞操帯をつけたということか?

 いや、もっとすごく身近な、ありふれた、何気ない二人の日常そのものがどこかゆがんでいるということなのかもしれない。そこに何となく感じる都会での(大宮って都会か?)ある種の気分が実はたくみに描き出されているのかもしれない。なんとなく…

 だけど、きっとその「ゆがみ」みたいなものは、いまでは当たり前すぎてあえてそうは感じられなくなっているのかとも思う。

 さらに頭を悩ませるのは、タイトルの『ランドマーク』。つまり「象徴」だ。大宮のランドマークになろうとしている超高層ビル、それがねじれているということ。逆に言えば、ねじれが何かを象徴しているということ。主人公の二人を通して、いやこのビルの建設に関わっている人間たちを通して、いやこのビルが建とうとしている大宮を通して、この国の中心部における「ランドマーク」を通して、この時代というもののねじれ構造、ゆがんだ現実というものを表現しようというのだろうか…。まさか貞操帯が男性の象徴としての男性器をねじ曲げてるところに引っかけてるわけでもないだろうが…。

 と、まぁ、こんな自分でも訳のわかんないことしか思い浮かばないんだけど、、、

 それにしても、こういった文学小説(というのかな?)は久しぶりに読んだけど、やっぱり小説家っていうのはすごいもんだなぁとあらためて感じたのは事実!何がすごいって、なるほど書かれると「そうだなぁ~」と思ってしまう日常の何気なく感じてることがみごとに表現されてる。描写力というのだろうか、誰もがたぶん感じてはいるが、あえて意識に上らせることのないようなものがふんだんに語られていることによって、とってもリアルな臨場感が読み手に迫ってくるようだ。

 それとともに、たとえば設計士(やそれに近い職業)と鉄筋工(やそれに近い職業)の両方に身をおいた経験のある人ならば容易にわかるであろう、それらの職業にある独特の「世界」をみごとに描いていると思った。だから、たとえそのどちらの世界も経験したことのない人間でも、ちょっとだけ疑似体験が出来てしまうと思う。

 さて、あと気になったのは、ラストかな。ラストがあまりにも…なんというか、理解不能だった。そこで終わるのかよ~という感じ。これも何か大きな意図があるのだろうか??余韻を残すにしては、あまりにも残りすぎのような気がするんだが…。オレの文章で多用する「……」とか「、、、」とかの比じゃないくらいの余韻!!ラストで繰り返されるしつこいくらいの言葉の反復も、きっとふか~い意味があるのだと思うけど、オレにはさっぱりわからない。

 わからないままに、『ランドマーク』を読み終えた。

 そして、せっかくだから芥川賞をとったという『パーク・ライフ』も読んでしまった。

 ただ、こちらもオレに感性が不足していることを確認するだけに終わった気がする。心が貧しいのかなぁと不安になった。

 もちろん、描写力のすごさには感心させられたし、ことに『ランドマーク』同様、日常の何気ない感じをみごとにすくい上げている点に小説家のすごさを感じたけれど…。

 ただ、、、昔『伊豆の踊り子』とかの名作を読んだ後に感じたような、何というか、人間の深みに触れた!みたいな感覚は味わうことが出来なかった。

 もう少し、小説、読んでみようかなぁ…。

《 本の購入はこちら→ ランドマーク (講談社文庫)

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2006年6月 2日 (金)

お約束ってことで"ダ・ヴィンチ・コード"ネタ

というわけで..."THE DA VINCI CODE"

 どこの本屋に行っても必ず目に入ってしまう「ダ・ヴィンチ・コード」。文学作品なんて滅多に読まないオレとしては、この上なく目障りな本でした。最初はタイトルなんぞパッとしか見てなかったから「コード」じゃなくて「コート」かと思ってたし。ダ・ヴィンチが着てたコートの話題でみんな盛り上がってるのか!?はたまた、イギリスのウィンブルドンみたいな有名なテニスコートがイタリアにもあったのか!?とかマジに思ってたんです。ある日、チラッとめくってみると何やら絵画の中に隠された秘密に関する物語らしいということがわかった。で、それがわかったとたん、余計に本が遠い存在に感じてしまったのでした。だって絵とかに全く興味がなかったので。それでもいっこうに衰えない人気!(本屋の販売戦略だったのかもしれないが)。さすがにヒマをもてあまし&新し物好きのオレの心にも火がつき始めた。でも~、最後の晩餐とか裸の男の奇妙な絵とかを見るだけで「面倒くさそぉ」という思いを断ち切れないでいた。

 きっかけは、近所のコンビニに文庫本が置かれたことでした。つまりごく最近のこと。ついでにいくつかの解説本も買ってみた。そして何気なく読み始めた……

ナンダこれ~!?、オモロ~イ!!

 そりゃあ受験生の頃はとりあえず夏目漱石とかくらいは読んだことあったけど、社会人になってからはほとんど文学作品とは疎遠だったオレ。まさかこの本が生涯で2冊目となるマイベストセラー(?)になるなんて思ってもなかったのです。1冊目は?というと、『ループ』という本です。あの、『リング』、『ラセン』の続編のやつです。前2作は全く読んでなかったけど、何故か『ループ』を初めて立ち読みした時から運命的な何かを感じてたようですね。今までの人生で飽きることなく…どころか続きを読みたくて仕方ないと思ってしまって一気に読了した本(文学書)は『ループ』と『ダ・ヴィンチ・コード』だけでした。

 一体何がそんなに面白かったのかという点ですが、オレ的にはズバリ作者の腕前がみごとだったということでしょうね!って、それじゃ意味がわからないけど、わかり易さとか展開の仕方が早いし絶妙だとかが挙げられるかもしれないですが、とにかく「頭のいい人ほど、わかり易く説明できる」ということですかね!ただ、あくまで娯楽ものでしょうから、「読んでる人を惹きつけて離さない」という組み立てはみごとですけど、世の名作がそうであるような「読み終わってからしみじみ実感させられる、身体に染み込んでくるような感慨」、「人生観に影響を与えるような感動」というようなものは感じられないですけど。

 さて、内容についてですが、「ダ・ヴィンチ・コードの真実」とかいうDVDが出ておりいわゆる解説ものかなと思ってたら、なんとこれが…バチカン・カトリック側からの反撃のビデオだったというから驚き~!が示すように、この本はキリスト教にとってその存在にかかわるような衝撃的な内容だというんで世界的に話題になったんですよね。「ほぉ~、そりゃあ凄いことだ!この世界を揺るがすような問題作なら一度は読んでおかないといけないな」と意気込んで、期待と畏敬の念を持ちつつ読んでみたわけなんですが、終わってみると何のことはない、キリスト教信者にとってのみ衝撃的な内容だったというだけのことでした。キリスト教信者じゃない世界中の人々にとっては「どうだっていいじゃん、そんなもん」という本だったのですよね!ネット配信のニュース記事(毎日新聞)に「ダ・ヴィンチ・コード」に対する国ごとの反応などがありましたが、騒いでるのはどうも一部のカトリックの国だけみたいですね。イスラエルも冷めてるらしい、なんとローマでも決して国をあげて騒いでるわけでもない。映画もインドでの上映見合わせがひと頃あったみたいですが、フランスでは「ハリー・ポッター」ほどの人気でもないとか…。ただ面白いのは我が日本ではかなり盛況だということ。なんでやね~ん?!う~ん、日本人って「実は○○だったのだ!」的なネタが好きな民族なのかなぁ?

 というわけで、文庫本、ハードカバー、いくつかの解説本、英語版ペーパーバック、英語版イラスト付きハードカバー、朗読CD、ついでに「ダ・ヴィンチ・タロット」まで買ってしまったオレも、近々映画を観に行ってきます。ちなみに、今は勢いで『天使と悪魔』を読んでます。これも映画化されるんですね!そっちの方のロバート・ラングドン役もトム・ハンクスでお願いしま~す!

 さてオレ一押しの『ループ』を読んでないという人はぜひぜひ!ハードカヴァーもあります。…奇想天外、発想のすごさに脱帽、人間の存在そのものを根底から問い直させる内容、とかいろいろ言っておりますが、この本、どことなくジム・キャリー主演の映画「トゥルーマン・ショー」に発想が似てないかな?

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