2009年8月 7日 (金)

「市民感覚」反映されたと市民が喜ぶ!?

 いやぁ、初めての裁判員参加裁判。NHKはじめ各報道機関の熱の入れようはすごいね!さぞや今回の裁判員たちは大変だっただろうが、無事役割を終えたということで、まずはご苦労さま。

 今までの専門家による裁判では出ないような質問が飛び出したと感慨深げに語っていた被告側弁護士だったが、検察寄りの判決に今度は一転不満げな顔、、、まさに「悲喜こもごも」か。

 

 いまだに賛否両論ある裁判員制度だけど、もう始まっちゃったからにはやるしかないって感じだね。あとは問題が見つかれば修正しながら、続けていくしかないでしょう。

 それにしても、最後の判決の時のたすきリレーさながらのNHK記者のほぼリアルタイム報告もすごかったけど、ぶっとんだのは終了後の裁判員たちの記者会見!!

 え~!?そんなもんなの~!?顔だしOKなの~!?

 つーか、だったら最初から仮面舞踏会のマスクみたいなの付けて完全公開でやってくれてもよかったんじゃないかい!!??

 さてさて、終わってみて報道機関が言うには、おおむね成功だったと。これまでと違って「市民感覚」が反映されたものだったと肯定的な評価だったような。

 もちろん大事なのは、評議の中でどういうやりとりが行われ、どういう経緯で最終的にあのような判断に至ったのかということだけど、ともあれ「市民感覚」が発揮されたとのこと。それならそれでいい。

 でも、いったい誰がそれを喜んでいるわけ??裁判所?検察?弁護士?

 ま、検察側は満足だっただろうし、自信を深めただろう。

 あとは誰だろう?この制度を推進してきた人たちもかな!そうだろうね。まだ一例だけだから今後もっとサンプルを増やしていかなきゃならないけど、ひとまず推進派にとっては拍車がかかった結果だろう。

 でも、そもそも裁判に「市民感覚」を求めているべくは当の「市民」のはずだ。とすれば、誰よりも歓迎するべきは我々一般国民!!だよね。

 のはず!だけど、そこんとこはどうなのかな?誰か検証してくれるのかな?世論調査でもしないといけないだろうね(やってたりして!?)

 それから、ひとつ思ったけど、このような市民参加型の裁判はなかなかGoodだったんで、司法だけじゃなくてついでに行政も立法も国民の中から数人を選んで参加するってのもいいんじゃないのかな!?

 そうすれば司法の場と同じように、「国民」が参加して決めたということである意味みそぎを受けたというか、お墨付きをもらったということになって、なにかとやりやすいんじゃないかね。

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2009年2月20日 (金)

江東区での殺人事件裁判

 星島被告への判決が東京地裁で出された。「無期懲役」という判決については、自分なりにしっかり考えてみたいと思っている。

 その前に、何度か閲覧させてもらっている法廷でのやり取りをさながら実況中継のように書いて見せてくれているサイトを、今回も参照させてもらった。産経新聞グループのウェブサイト「イザ!」だ。

( 江東区「神隠し殺人事件」の法廷ライブ→ http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/213823/ )

 以前、「世田谷セレブ妻のバラバラ殺人事件」や「秋田連続児童殺人事件」(こちらは書籍を購入)の法廷ライブを参照させてもらった。

 オレは実際に裁判を傍聴したことがないけど、この記事を読むことで多少ともその雰囲気を味わうことができる。もちろん、実際にその場の雰囲気や生の声を聞けばまた全然違った感想を持つとは思うが、今回の事件に関して言えば、このサイトの記事を読むだけでも気分が悪くなり背筋が凍りつく思いがしたくらいだから、実際に裁判を傍聴したらきっとしばらくの間は夢にうなされるに違いないと思った。それくらい内容は凄惨を極めるものだ。

 読むのにも覚悟がいるくらいだから、実際にこの公判に立ち会った関係者や傍聴人、とくに遺族の人たちの心情は想像することすらできない!

 法廷ライブを読んでいて、ところどころで疑問に思ったことのひとつは、

「ちょっと、いくらなんでもそのやり方は行き過ぎじゃないの!?」

ということ。なんでも、法廷内に設置された大型モニタにいちいち細々と犯行の再現映像や実際の遺体、証拠品などが映し出されたらしい。そしてさらに、検察官によるあまりに生々しい被告人への質問……

 襲ったときの被害者の状況、包丁で刺すときの詳しい状況、刺されてからの被害者の状態、刺したときの感触、遺体を「解体」するときの詳細――首をどのように切っていったかとか、どこを持ったか等々――などなど、被害者がそのとき一体どんな気持ちだったのかを想像すると、何ともやりきれない、可哀そうというよりも胸が押し付けられるような苦しい気持ちにさせられる……読んでいるだけで……。

 それを間近で聞かされていた遺族の心中はどれほどのものだっただろうか!?ましてや、いちいちモニタに再現映像が流されるのだから、、、

 いくら事件の真実を明らかにするためとはいえ、いくら被告の残虐さを証明するためとはいえ、まるで「死者を冒とく」しているような感じにしか思えない。

 記事にあったが、東京地検の幹部の話によれば、今回の裁判はきたる「裁判員制度」を強く意識した、皆に分かりやすい裁判を行うための「実験」だったという。また凄惨な場面を見せることで一般の素人がどの程度ショックを受けるかの「実験」も兼ねていたともいう。そのために実際の痛ましい事件を使われてはたまったものじゃないと記事に書かれていたが、オレもまったくその通りだと思った。

 真実を明らかにして、きちんとした量刑判断をしてもらうことは大事なことだと思うが、悲しみの中にある遺族をさらに苦しめどん底に突き落とすようなことも、果たして正しいことなのだろうか?!そこまで強い意志を要求されなければならないものなのだろうか?!

 光市母子殺害事件での遺族の毅然とした態度が記憶に新しいが、だれでもそうした態度をとれるわけではない気がするが……

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2008年6月19日 (木)

3人の死刑が執行ですね…

 死刑存置派、廃止派それぞれの主張を比べてみると、どっちも「なるほど!」と思えてしまう。

 (たとえばウィキペディア→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E5%88%91%E5%AD%98%E5%BB%83%E5%95%8F%E9%A1%8C

 世界の先進国では死刑廃止の流れになっているみたいだけど、日本では逆に死刑存置が多数だ。オレのまわりの人に聞けば100人中99人は死刑当然!になると思う。

 若い人で死刑廃止を主張するのは大学の法学部生か、アムネスティで活動してる人たちか、少しでも西洋思想を勉強した人くらいじゃないの?…それは冗談としても、、、

 オレとしては、正直どちらだとハッキリ言えない。たぶんごく自然に考えれば死刑はあって当然だろうと思う。それどころか、抑止効果を発揮させるんだったら、いまの執行方法ではぜんぜん生ぬるい!とさえ思ってしまう。

 猿ぐつわをして素っ裸で全国横断的な引き回しをしつつ、少しずついたぶりながら最大限の苦痛と、そしてなにより屈辱を味わうくらいのことをしないとダメだろう!と、、、そもそも抑止効果(予防効果)は犯罪を起こすことをためらうようなくらいじゃないと意味がないんだし。

 だが、そんな方法をとったら一番苦しいのは執行人だろうな。現在でさえ執行官はかなり精神的に負担を強いられているんだから。(そのひとつの理由は、死刑囚をいつまでも生かしておくことだ。悔い改めて「まともな」人間にしてから死刑を執行させねばならないこともある)

 それはともかく、われわれ(日本人?)の自然な感覚からすれば、凶悪犯罪を犯したものが死刑になるのは当然だという意見が多数になるのは明らか。

 だけど問題なのは、多くの人が「死刑は当然」と軽く言いながら、いざ裁判員として量刑判断を迫られることに考えを至らせると、判を押したように「死刑なんて言えないや!」という、その感覚。つまり、死刑は当然だと当然のように言うそのときの死刑がどこか空虚で抽象的で観念的すぎるように思うわけ。そんな感覚的な(感情的な)内容である「死刑賛成」の声を「世論」だからといって公言しちゃっていいのだろうか??

 そもそも、死刑存置というのは自然な感情として容易に受け入れられるものだけど、一方の死刑廃止という考え方は、やっぱりそれに至るまでに理性的な価値判断を介在させないと出てこないような類のものだと思う。つまり、死刑に賛成という意見形成には、「被害者遺族感情」とか「(因果)応報」といった誰にでも馴染みのある感覚だけでこと足りるのに対して、死刑廃止のそれは、「人権」とか「憲法の精神」とか「冤罪の可能性」といった理念だとか潜在性という反省的な思考が必要というわけ。

 さっきやってたNEWS23で、視聴者からのメールが紹介されていたけど、その中のひとりが、「鳩山法相になってこれで○○回目だ!などと報道するのはやめてほしい。まるで死刑廃止論へ誘導しているみたいだから」といった趣旨のことをメールに書いてきていた。思うに、死刑廃止論はそんな風にあえて誘導するくらいのことをしないといけないくらい「頭で考えること」を要求するものなんじゃないのかな、と。。。

 で、なんだかんだ言いながら、要するにオレとしてはもうちょっと各々の主張について学んでからじゃないと決断ができないということだ。だし、、、同様にこの日本でも感情論だけじゃない部分でもしっかりと議論してかなきゃいけないんじゃないだろうかと思ったわけ!、、、いや、オレだけ無知だったというならそれでいいんだけど、、、(#..#)

 ほわぁぁ、ネム!

 また明日、眠たそうな顔してて同僚に叱られる、、、

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2008年6月 4日 (水)

「裁判員法」を読んでみた

 突然だけど、裁判員制度に関する法律って読んだことあるかな?オレはもちろんない!言われてみれば制度が出来たんだからそれについての法律も出来たってことだよね。ためしに傍らの『判例六法 2008』(三省堂)をめくってみたら、、、おぉ、あるじゃねーの!

 ○裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(p.1990)

 てゆーかさぁ、オレたち法律の素人に読んでもわかるわけないじゃんよぉ!というのが本音ではあるけれど、まぁものは試しに見てみるか!いやいや、素人だから法律なんてムリムリ、、、なんて言ってて大丈夫かよ!?って、考えてみりゃ来年からこの制度スタートなんだよね。そうだよ、いざ裁判員に選ばれちゃったらまがりなりにも被告人を前にして裁判官の方々と同列に座ることになるわけだ!いくら法律なんて知らないっていっても、だから思ったことだけを述べますなんて読書感想文書くときみたいな気持ちでは済まされないでしょう。。。

 それはそうと、では!ちょっと中身を読んでみましょう。

裁判員の参加する刑事裁判に関する法律
(平成16年5月28日 法律第63号)

ん、なるほど、この法律は平成16年の5月にできたんだぁ!そうか、ずらずらと目を通してみると、最後のとこに来て「附則」なるものを発見。その第1条をみると、

 第1条 この法律は、公布の日から起算して五年を超えない範囲内において政令で定める日から施行する。(以下略)

と書いてある。なるほど、平成16年に公布されたんだから、その5年後っていうと、平成21年だ。だ~から、来年の5月からスタートってわけなんだ。

 では、肝心の本体にもどって(附則って言うくらいだから法律本体のことは本則という)まずは、、、

 第1条(趣旨) この法律は、国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続きに関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することにかんがみ、裁判員の参加する刑事裁判に関し、裁判所法及び刑事訴訟法の特則その他の必要な事項を定めるものとする。

 なんか睡魔が襲ってきた、、、ケド、、、ようするにこの制度をはじめる理由というのは、オレたち一般国民が裁判に参加することで、裁判の現場がどんだけ大事な仕事をしてるのかをオレたちに分かってもらおうと!さらには、参加することできっと裁判(司法)に対する信頼感も高まるだろうと!

 とまぁ、なんかいちいち条文を書き写すのが面倒になったんで、以下は気になったら自分で読んでくれ!(って、なんでオレが啓蒙してるんだか、、、)

 そんなわけで、以下は適当にオレ的口語訳ということで。。。

 第2条 ……では、裁判員たちの参加対象となる事件について。なんと、、、刑事事件だけを扱って民事の方には参加しないというのは分かってたけど、あらためて見てみると、刑事事件の中でも最高で「死刑を言い渡す」可能性のあるような重大な刑事事件だけが対象事件なんだそうだ!そ、そうだったのかぁ、、、そういえばテレビ報道なんかでもやたら「死刑を言い渡すことができますか!?」みたいなこと言ってたっけ。なんでなん?なんでそんな重い事件だけやらせるん??

 第3条 ……は、これまた恐ろしい~!!こんな内容だ、、、さて、参加対象の事件であっても、たとえば被告人が怖い団体(○○会系暴力団とか)の構成員だったりして、裁判員の「生命、身体若しくは財産に危害が加えられるおそれ又はこれらの者の生活の平穏が著しく侵害されるおそれがあり」、そのために裁判員が怖がったり、公判に出たくないと言ったり、裁判員としての仕事を果たせなかったりしそうだと(地方裁判所が)認められる場合には、裁判員抜きでやってもよいということ。。。おいおい、だったら最初から重大事件なんか扱わせるなよ!、、、といいたいとこだけど、逆に言えば裁判官や検察、弁護士さんたちってそういう危険な仕事もしてるんだってことだよね。仕事とはいえ頭が下がるよ。

 第9条 ……ここには、裁判員の「義務」が書かれている。そっかぁ、、、義務があるんだぁ。ここで、裁判員は公平で誠実に職務を遂行しなければならないとか、公正でなければならない、品位を害するような行為をしてはならないなどと言われているが、それらは当然だよね。遊び半分でやられたら大変だし。注目は、裁判員には秘密を守る義務があるってことだ!要するに、裁判員になったその日から、自分が関わった事件に関しては、いっさい他の人に漏らしてはいけないと!そう、一生にわたり誰にも秘密にしておかねばならないのだ!しかも、、、秘密を漏らした場合には、、、

 第108条 ……秘密を漏らしたときは、6ヶ月以下の懲役か50万円以下の罰金を払わなくちゃならないんだぞぉぉぉぉ!!!

 前後しちゃうけど、、、

 第101条 ……誰も裁判員の身分を公にしてはならないのだ!なんか、裁判員になったらその正体は永遠の秘密ってんだから、現代の隠密だね。それだけ裁判員も命の危険があるってことでもあるわけだな。

 第102条 ……誰であっても(ってことは親兄弟でも夫婦でも?)裁判員から秘密情報を聞きたいという気持ちで裁判員に接触を試みてはならぬ!

 ところで裁判員に選ばれる基準とか、辞退できる理由あるいは裁判員には不適格だとされる人の基準なんかについては、、、

 第13条~第18条に細かく書かれておりまする。たとえば、、、

 第14条 ……では、義務教育を終了してない者、過去に禁錮刑以上の刑に処せられた者、心身の故障者は裁判員になれませんと書かれてる。

 第17条 ……では、当然ながら対象事件の関係者は外されると書いてある。

 ま、ざっとこんな感じで、怖がらずに眺めてみると案外わかりやすい部分もあったなぁと思った。よかったら一度お目を通されてはいかがかな。

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2008年5月 6日 (火)

裁判員制度について(補足または訂正)

 前回のブログで書いたこと、、、もしかしたら、いや一歩間違えば非常に不謹慎な話になってしまうんじゃないかと怖くなった。だから、若干の補足、あるいは訂正。

 前回、裁判員制度の導入には「国家権力」のある思惑があるんじゃないかと、ふと考えついたもんだから不用意に書いてしまったけど、よくよく考えてみたらまったく逆なのかもしれないと思った。そもそも制度導入についての詳しい経緯を知らないものだから、あれこれと邪推してしまったりしたけど、もしかしたらこの制度、権力の横暴を許さないために市民が闘いとった大切な制度なのかもしれないと。ともかく制度は制度としてあるものだから、あとは私たち一般人がどう利用、運用するかにかかっているわけで。

 私たち一般市民の「良識」が求められているという。では私たちの良識とは何だろう?私たちは日々の生活のなかでいろいろな人と接し、人間関係を中心としていろいろな問題に直面し、悩み、その中から解決法を見つけ出し、またその中から他人と協調することの大切さを学び、さらには他人の痛みに共感することも学んでいく。そしてそれらを通して人としてどう生きるべきか、どう生きることが「正しい」のかをつかみ取っていく。良識とはそういう経験の中で自然に身についていくものだと思う。別に「良識百科事典」なんてものがあってそれを読めば誰でも一目瞭然というものじゃない。

 ただ一方で、私たちの「常識的判断」は意外と当てにならないかもしれないということにも注意しなければならないと思う。裁判員になったら、まずはテレビ報道、とくにワイドショー的なものは極力見ないようにすべきだと言われる。それはテレビ報道が必ずしも「真実」を「公平」に語っているとは限らないからだ。視聴者受けをする部分だけを切り出して報道することだってあり得る。そして私たちは案外その報道に「引きずられやすい」ものだから!

 たとえば映画「それでもぼくはやってない」の中でも言われていた事だが、刑事裁判において重要なのは、

★「無罪の推定」または「疑わしきは被告人の利益に」

★「検察側が『合理的な疑問を残さない程度の証明』をしたかを判断する」

ことだという。相手がどんなに「悪人づら」していようが、自分の印象だけで最初から「犯人」だとか「有罪」だとかといった「思い込み」「先入観」を持ってはならない。また裁判官や裁判員の仕事は、みずから現場に出向いて調査したり聞き込みをしたりすることじゃなく、あくまで検察側と弁護側の主張をよく吟味すること、とくに圧倒的な権限と捜査能力を持っている検察(警察)側の出してくる証拠が私たちの「常識や良識に照らしてみて、疑問の余地がないくらい正確であるかどうか」を吟味すること、そのうえで判断をすることだ。もちろん被告本人に対する私たちの心証も重要な判断要素になるのは当然のことだろうけど。

 だいぶ前に有罪が確定したある教授の痴漢事件。あまり関心をもって見ていたわけじゃなかったが、マスコミ報道ではたしか最初から最後まで犯人扱いしてたんじゃなかったかな?それに対して当の本人は本まで出して自分の無実を主張しているようだ(読んでみたが)。真実はどうなのかはわからないが、もし本人の言うとおり警察による捏造などがあったとしたら、私たちはすっかりマスコミ報道によって作り話を聞かされ信じこまされていたことになる(あくまで、この話は一例だけど)。

 真実がどこにあるのかっていうのは、思いのほか難しい問題だ。

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2008年5月 5日 (月)

裁判員制度の真の目的とは

 市民が刑事裁判に参加する制度は世界の多くの国々で(80以上の国や地域)導入され定着しているという。

 ところで裁判員制度はいったい何のために行われるのか?

 われわれ一般市民が刑事事件に参加することにより、様々な社会経験を持った者による証拠等に対するより多角的な検証がなされるだろうと。そして市民がみずから刑事事件を扱うことで自分たち自身の権利意識を向上させ、いっそう自覚的な社会生活を営むことにもつながると。さらに専門家だけの硬直した判断に陥りがちな司法によりいっそう世論を反映させることができると。そしてまた結果として裁判の迅速化にも寄与することになると。まぁ、こんなところだろうか。実際によく聞くのは「健全な社会常識が裁判内容に反映されることが期待されています」というフレーズだ。

 でもねぇ、、、素人がいきなり刑事事件に参加したってかえって現場が混乱するだけじゃないのかな。なにより現場の裁判官たちにもいい迷惑なんじゃないの?本当は…。それと、日本の場合は参審制とかいって有罪か無罪かを決めるだけじゃなく、有罪の場合にどういう刑罰を科すか(課すか)という量刑判断までするっていうんでしょ。いろいろな混乱を想定して実験、検証も盛んに行われてるようだけど、だったらとりあえず有罪か無罪かだけを決めるところで止めとけばいいんじゃないのかね。しばらくそれでやっていって問題なく定着してきたらあらためて量刑判断までやらせればいいのに…。といっても、もう決まってしまったことだからいまさら言ってもはじまんないけど。

 ちなみにオレとしては、ぜひとも参加してみたい。もちろん選ばれたからには可能な限り真剣に取り組みたいし、ある程度の勉強もしてみたいと思っている。他人の人生を左右しかねないものだけにやりがいもあると思うし。だからオレとしては制度にはまったく肯定的な立場だ。

 それはいいとして、知りたいのは裁判員精度の本当の目的って何なのか?ってことだ。本当に最初に言ったようなことが目的なのかなぁ、、、??真の狙いって、もしかしたら別にあったりしないのかな?たとえば今の日本の世論ってどちらかといえば被害者感情に同情的だと思うし、それを受けて厳罰化を求めるっていう傾向にあるんじゃないかと感じるわけだけど、厳罰化というのはある意味「権力」にとってはありがたいことだよね。「権力」基盤を固めるためにはそういう方向でいってもらうのが何かと都合がいい。しかも国民みずからが参加してそういう方向に司法を動かしてもらえればこんなに楽なことはない。社会が成熟して市民意識の高まった状態で「権力」が実力行使をするのにはいろいろと抵抗があって厄介だから、飼い犬を黙らせるのに同じ飼い犬を使うほうが反発も少なくリスクも少なく、なにより面倒くさくなくて手っ取り早くて、そのうえコストも抑えられるし。

 いやいや、なにわけのわかんないこと言ってんだか、オレって!きっと思い過ごしだろう、うん、そうだ、考えすぎだ!

 以上。

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2008年4月23日 (水)

光市母子殺害事件

 今日、光市母子強姦殺害事件の差戻し裁判決が出た。死刑。弁護側が上告したそうだが、最高裁がすでに死刑が相当との判断をしている以上、死刑の回避は難しいとのこと。

 死刑廃止が世界の趨勢というなか、日本では逆に死刑を求める声が拡大している。もともと「理念」的なものを重視する習慣の少ない国柄だということだろうか?厳罰化を後押ししているのは「感情」、とくに被害者・遺族感情への世論の共感だという意見も。

 だが実際のところ、犯罪被害者、遺族の気持ちはなった者でなければ当然わからないもの。たしかに相手の気持ちを「慮る(おもんぱかる)」、一生懸命に想像し類推することはある程度できるだろうが、そのことに思いをはせる量も質も圧倒的に当人とは違う。いずれにしても、第三者にできること、すべきことは被害者、遺族の「声」に真摯に、懸命に耳を傾けて「理解」することだと思う。その意味で、被害者の夫、本村さんの言葉は本当に重いものだと思った。

 彼は「時々」ではなく、きっと毎日毎日、来る日も来る日も思い続け、さまざまなことを考え続けてきたんだろう。彼の言葉はどれをとっても心に訴えるものがある。今回の会見でも、記者のどんな質問にもみごとなまで理路整然と語られていた。感情だけで話せるものじゃないだろう。考えに考え抜いてきた人間だからこそ、あれだけ自信を持って明快に答えられるんだろう。ただ感情に訴えて「死をもって償わないと納得できない」と言ってるわけではない。大切なのは、被告が自らの犯した罪の重さをしっかりと認識して心から反省すること、そして謝罪の気持ちを持つこと。それがないまま死刑に処されてもたぶん殺した方も殺された方も「犬死」なのだ。

 さらに彼の思いは、世の中から少しでも悲しむべき犯罪や犯罪被害者が減ることにも向かっていた。被告が罪を認めた1審、2審のまま罪に対する心からの反省を貫いていたらあるいは死刑は免れたかもしれないとまで本村さんは言及しているのだ。オレは彼の考えはまったく正しいものだと思う。弁護士が自らの能力を誇示したいがために行う「戦略」とやらに被告もはまってしまったのだとしたら、糾弾されるべきは弁護士の方なのかもしれないとさえ思ってしまう。「心神耗弱」と認定され刑法39条によって減刑されることを狙って、わざと夢物語を「創作」させる弁護士もいるというのは、『そして殺人者は野に放たれる』(日垣隆著・新潮文庫)なんかを読んでるとよくわかる。今回の事件でも被告は途中からいきなり「ドラえもん」「魔界転生」などを持ち出してきた。それが弁護士の「知恵」によるものだとしたら言語道断だろう。

 死刑をどう考えるか。それが悪に対する悪反動、応報として(やられたからやり返す)必要と考えるか?犯罪の抑止力として、必要悪と考えるか?あくまでも刑罰は教育・更生の手段と考えるか?いたずらに感情のみに左右されるものでよいのか?机上の空論ではなく、生の現実としていかに自分に引き寄せて考えられるか。本村さんの声を聞くことは有意義なことだろう。ちなみに、渋谷「セレブ」妻によるバラバラ殺人事件で被害者の母親は、供述調書のなかでこう述べていた…「死刑にしてほしいが、それでは一瞬の苦しみでおしまいだ。そんなものではなく、一生苦しみ続けてほしい。…歌織(被告)を死ぬまで刑務所に閉じこめて、罪を償わせてほしい。刑務所から戻り、祐輔(被害者)のことを忘れ、自分の人生を歩むことなど許さない」。これもまた被害者遺族の偽らざる気持ちだろう。犯罪被害者の「感情」もくみ取りつつ、冷静な判断も求められるという、厳しい判断を迫られる場面に遭遇する可能性がもうすぐ一般の人にも出てくることになっている。

 オレの考えを言えば、応報刑としての死刑には反対。大事なのは被告がどれだけ犯した罪の重さを認識し、反省と償いを心から思うかの見極めだと思う。裁く側がどれだけそれを判断できる目を持つか。そして反省なし、罪の意識なし、更生の可能性なしならば死刑もやむを得ない。死刑や重罰が重大な犯罪の抑止力となるか(予防や威嚇など)はなかなか定量的につかむことは難しいだろう。目に見えない形で社会を統制しているのかもしれないし、また効果がないのかもしれない。ただ最近では「誰でもよかった」「人を殺してみたかった」「死刑になりたくて人を殺した」といった他人はもとより自分の命さえ軽くしかみられない人間もいるみたいで、そういう人間にはもっと別な方策(教育とか)も必要だろう。

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2008年4月15日 (火)

裁判員制度開始まで1年あまり

 先日シーズン6を終了したドラマ「相棒」でも取り上げられた「裁判員制度」が来年の5月から始まるようだね。テレビを見ていても話題として取り上げられることが増えてきたように思う。

 さっきのNHKのニュースでも、選ばれた裁判員によって量刑がどう違ってくるかという点についての検証が行われたと報道されていた。

 ところで、いざ自分が裁判員に選ばれたら!?と考えるとやっぱり不安は大きいよなぁ。不安の中には、「素人の自分が法律に基づいた裁判をやっていけるのか?」とか、「被告の人生を左右するような判決に関わることは荷が重い。責任とれないよ」とかいうものがあるかな。なかには「被告やその関係者に恨まれるんじゃないか。復讐されたりしないか」といった不安の声もあるみたい。

 オレとしては、やはり「人を裁くことの責任の重大さ」が一番かなぁ、、、もし判断が間違っていたら?本当は犯人じゃなかったりして!、、、もし自分の関わった裁判で有罪判決を出したあとに「冤罪」だったことが発覚したら、、、

 一般人の常識的な感覚を裁判に反映させるということ、裁判官と一般庶民との感覚のズレを少なくするということ、、、

 たしかにテレビの裁判結果の報道なんかを見ていて、「ありゃおかしいんじゃない?どう考えても死刑じゃん!」などと周囲の人と話したりしてるけど、実際にその裁判に関わる当事者になることを考えると、あんまり軽はずみなことは言えなくなりそうな気もする。

 死刑どころか、有罪か無罪かの判断をとっても決して簡単なことじゃない。以前ちょっとだけ「刑法総論」なるものを勉強したことがあったけど、なんでも専門家といわれる人たちのあいだでもずいぶんと意見が分かれているそうだ。いわゆる学説というやつ。まぁ、どうせなら一度は何か手ごろな本でも読んでみるのがいいだろうけど、読み始めるとすぐいろんな「学説」が出てくるから、それだけで頭が「パニッパニ!パニパニパニック!」となること請け合いだけど。

 あと問題になるのは「法律用語」だろうな。例を挙げればきりがないけど、たとえば「構成要件該当性」、「違法性阻却事由」、「責任阻却事由」って聞いてなんのことがわかるだろうか?だいたい「阻却(そきゃく)」って何だよ!?「事由(じゆう)」って何だ!?

 「因果関係」って言葉は誰だって知ってる。それだったら楽勝!……ってか?要するにこういうことだ……A男がB子を殺そうと思って毒入りジュースを飲ませた。で、1時間後にB子は死亡した。これはあきらかにA男がB子を殺したということになるね!B子の死亡という"結果"を引き起こした"原因"はA男の毒を盛ったという行為だから。。。ところが、実はもうひとりB子を殺したいと思っていたC男がいたってことになったら??このC男もまたB子を殺そうとしてA男が毒入りジュースを飲ませたあとに、毒入りりんごを食べさせたのだ!さてさて、、、A男とC男には「殺意」があった。「故意」があったのは間違いない。でもB子の死因は果たしてA,Cどちらの毒???「因果関係」ありと認められるのは「A→B?」それとも「C→B?」、、、この場合、B子の死の直接の原因となったのがA男かC男かが特定されないとまずいことになるんだ。結果によっては「殺人(既遂)」となるか「殺人未遂」で終わるかが分かれてしまうからだ。これは刑の重さを決めるのにも大きく影響してくる。

 ついでにいえば、「初公判が開かれた」とかよく耳にするけど、「公判」ってなに?「裁判」のことじゃないの??いやいや、民事事件の裁判では「公判」という言葉は使われないらしいよ。

 先日の4月10日、渋谷区での(いわゆる)「セレブ妻による夫のバラバラ殺人事件」の論告求刑公判が開かれた。判決はたしか今月末ごろとのこと。。。さて~、またまた“じぇんじぇんわかりましぇ~ん”、、、「論告」?「求刑」?、、、こうして文字を見れればまだいいけど、これをラジオで聴いてたりする素人はどう思う??「検察官によるロンコク、キュウケイ、弁護人によるサイシュウベンロン、そして被告人によるサイシュウチンジュツと続きましてケッシンとなり…」、、、「ふ~ん、なるほど。検察が何たらして、それから休憩をはさんで、最終弁論、被告が最後に言いたいこと言ってから、裁判官がついに決心するのか!」なんて話になってたりして。

 ま、それはそうと、今オレはその「(いわゆる)セレブ妻による夫のバラバラ殺人事件」の公判記録を初公判からずっと読んでるんだけど、これがまたおもしろい(といったら不謹慎だけど)、、、実に意義深い!わけだ。

ネタ元のサイトは↓

(http://www.iza.ne.jp/news/feature/3923/event/allnews/)

 結構の量だから読むのが大変そうだけど、生々しい裁判の様子がよく伝わってきて、とてもすばらしい記事だよ!(ちなみに、先ごろ例の畠山鈴香被告の全公判記録集が本になった。これは同サイトの記事を本にしたもので、こちらもさっそく購入した。書名は『法廷ライブ 秋田連続児童殺害事件』 産経新聞社会部著 \1,400税別)

 で、自分が裁判員に選ばれて、実際にその裁判に立ち会うことになったとイメージして読んでみるといいと思う。

 例として、さわりだけ簡単にかいつまんでみよう。

 まずは「弁護人の冒頭陳述」を読んでみる。被告人・三橋歌織(以下「歌織」)は被害者である夫・三橋祐輔(以下「祐輔」)から日常的に家庭内暴力、いわゆるDVを受けていた。弁護人によれば、歌織が祐輔を殺害した動機は、まさにこのたび重なる暴力によるものだという。

 《歌織さんは長期の暴力でPTSDとなり、極度の緊張状態にありました。このままでは逃げられないという絶望感を抱え、PTSDにより自分をコントロールできなく》なったため、祐輔を殺害した。そして殺害後も《恐怖感はなくならず、祐輔さんを消し去りたいと考え、運搬を計画。しかし運ぶことができず》バラバラにした。( 《》内は上記サイト記事より引用 )…これが弁護側の主張。DVの実例がいろいろと挙げられていて、最初にそれを読んだとき、オレのイメージは、か弱くていつも夫の暴力におびえる歌織の姿。「これはもう殺害したとはいえ、ある程度はやむを得ないなぁ」との感想をもった。

 ところが、次に検察側の「冒頭陳述」を読んでみたら、まったく弁護側の言ってることと違っていたのに驚いてしまった!!

 検察側の陳述では、夫による一方的なDVなんて話はまったく出てこない!ときに夫が暴力を振るったことがあったとしか述べられていない。基本的には夫婦喧嘩であると…。それどころか、いかに歌織が欲深くて、腹黒いかが述べられる。離婚したいが、その際にいかに自分に有利な条件で離婚できるかをずっと考えていたのだという。夫の暴力をネタに多額の慰謝料を請求しようと画策していただとか、暴力がなくなってきてしまったので、次に浮気の証拠をつかみ、それをネタにして離婚を自分の有利に進めることに方針転換しただとか、ボーナスも取り上げ、祐輔に歌織名義のマンションを購入させて、離婚の際にマンションも手に入れようと画策していた…。

 そして、殺害の動機については、、、

 《歌織被告は、自分の思い通りにことが運ばない腹立たしさや、祐輔さんから過去に受けた暴力に対する怒り、自分のプライドを傷つけられたことへの悔しさなどを抑えきれなくなり…(中略)…憎しみの感情が爆発し》祐輔を殺害する決心をしたと。そして、歌織ひとりだけでは《死体の運搬が困難》だったことと、発見されてもすぐに身元がわからないようにするために《死体を切断して別々に捨てる》ことにしたと。したがって検察側は歌織には完全な責任能力があったと主張する。

 ここまで両者の歌織被告に対する見方がまったく違っているわけだ!

 話が長くなっちゃったけど、実際の裁判ではいったいどうなっちゃうんだろうねぇ…

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2007年10月23日 (火)

映画「それでもボクはやってない」

 昨日、今日と日本映画を2本観たんで、せっかくだから感想でも残しとこうと思います。最初に観たのは「それでもボクはやってない」で、次は「バブルへGO!!」というやつ。

 とりあえず今日は「それでもボクはやってない」について(バブルへGO!!については気分が乗ったら感想アップします)。

 これ、題名から想像できるように「冤罪」についての映画。わざわざネタばれさせても仕方ないんで、そこらへん気をつけて書きます。

 大まかに言えば、満員電車で痴漢に間違われて逮捕、拘留された主人公が裁判を通してあくまで無罪を主張し続けるが、警察と検察によって有罪にされようとするもの。結末は映画を観てくれればいいでしょう。

 まず第一に強く心に残ったのは、裁判官(裁判長)によってずいぶん裁判の行方が左右されるんだなぁということ。法律とか裁判なんて全然わからないド素人のオレだから、単純に驚いた!なんか、どんな裁判長に当たるかという「運」って大事じゃん!と思った。ちなみにこの裁判の過程ではある理由で裁判長が途中交代してしまうのだ。こんなことって結構あるのかな?

 とくに印象深かったのが、ひとりの裁判長が言った言葉。ちょっと長くなるけど、司法修習生(司法試験に受かった研修生ってとこ)が裁判長に質問してるところから引用してみる。

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●修習生 「無罪を言い渡した事件で、本当はやってるかもしれないって悩んだことはありますか」

●裁判長 「ありません!(きっぱり)」 「事実認定は、あくまで検察官が合理的な疑いを入れない程度の証明をしたかどうかを判定する作業ですから、証拠はないけど本当は被告人が真犯人かもしれないなんて悩む必要はないんです。そんなことで裁判官が悩むと、証拠もないのに勝手に検察官の言い分を補って、ときには無罪の人を有罪にしかねません。検察官の証明を吟味して、有罪の確信が持てなかったら無罪なんです」

●裁判長 「刑事裁判の最大の使命は何だと思いますか?」

●修習生A 「真実を見極めること」

●修習生B 「公平であること」

●修習生C 「公平らしさ」

●裁判長 「最大の使命は…、無実の人を罰してはならない!ということです」

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 この映画は、そもそも主人公が無罪であることがわかっている設定なので、観ている方は自然と無罪の人が有罪にされかかっている!という立場に立つことになる。その流れから言って、上の裁判長の話はとてもホッとする、人間味のある話として聞くことが出来るわけだ。

 第二に印象深かった点は、映画がとてもリアルっぽかったこと。ハッキリ言ってエンターテインメント的な要素はまったくない!徹底してリアルっぽい。だからこそ、この主人公がたどったいろいろな経験がとても迫力を持ってわが身に迫ってくる!留置場内での雰囲気、人間模様、警察による取り調べ、そしてもちろん裁判の場自体も、そして法廷以外での仲間とのやり取りまで、最後まで気が張って、背筋が寒くなるような気分にさえなりながら観ることになる。

 キムタク主演のドラマ「HERO」は好きで欠かさず観ていたが、そのドラマに限らず、考えてみれば今までよく観た裁判モノは、たいてい被告人が「悪者」で、被害者に同情的な気持ちをもつようなものが多かったと思う。そういう意味でこの映画はオレにとって異色だったし、新鮮だった。映画で語られていたように、真実はまさに本人しか知らないものだとしたら、人が人を裁くということの重み、深みを感じざるを得ない。これから素人も裁判に参加する時代になる。オレがそのひとりになるかどうかは分からないけど、誰もがその可能性があるだけに、誰もが一度は考えなくちゃいけない問題なんだと思った。

 また、リアルさを実感できることのひとつに、決して主人公の立場ばかりを必要以上に「持ち上げていない」ところがあると思う。たとえば痴漢にあった被害者についても、わざと「被害妄想的」で「悪い人間」みたいに描いてないで、被害者も被害者としてちゃんと自分に正直に振舞っているものとして描かれている。だからこそより真実味のある作品になっているのだろう。言い換えれば、いたずらに「犯人探し」みたいなショー性を演出してはいないということ。

 ところで、田舎住まいのオレがこれと同じようなシチュエーションに遭遇することは稀だと思うが、都会に住んでいて、毎日満員電車に乗っているような人にとっては、明日にでもわが身が同じ境遇にさらされても全然おかしくないことだけに、そういった環境にいる人にとってはなおさらリアルに観られるに違いない。

 レンタル店で見かけたら、ぜひ多くの人に観てもらいたい映画だと思う。

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