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2009年7月22日 (水)

皆既日食、見たかった

 場所は茨城県(北関東沿岸部)、時刻は午前11時20分前後。部分日食。

 あたりが心なしか暗くなったような感じがした。

 その時感じたことを何と表現したらいいだろう、、、

 浮かんだのは、神々しい(こうごうしい)という言葉だった。

 

 この感覚ってヤバいかもしれない。その時どこかの「教祖さま」みたいな人に何か説かれたらすぐにその教えに帰依してしまいそうだ。きっと、、、人が宗教的なものに入り込んでいくときにはこんな心的浄化の感覚を味わうのだろうと思った。

 自然のスケールの大きさに心を揺さぶられたのだろうか。

 自分も大自然の一部だという、人間の「自然性」みたいなものがそれに呼応したのだろうか。

 日食を目の当たりにした多くの人が歓喜の声をあげ、目に涙し、自然と万歳をしてしまうのは、一体どうしてなのだろう。

 考えてみれば、自然の雄大さに触れることは何も日食に限ったことではないだろう。雲海から立ち上る朝日を望んで、多くの人が感動に打ち震え、ある種の畏敬の念をも抱くと言われる。あるいは火砕流や土石流、大地震など、自然の圧倒的な脅威にさらされることもあるわけだ。

 それでも、日食…皆既日食にはまた特別な何かがあるのかもしれない。

 

 なんにしても、日食フィーバーは無事に(?)終わった。

 仕事の手を休めて空を眺めたとき、薄曇りの中にたしかに日食の姿があった。不思議なことに、朝から降り続いていた雨はさらに激しさを増し、空は厚い雲で覆われていたのに、「その時」になると、雲がやわらぎ、雨がやみ、地面を太陽が照らしていたのだった。

 残念ながらカメラが近くになかったので、携帯のカメラで撮ったけど、やはり無理があったようだ。

Nissyoku_m

 仕方ないので、目にした光景をPhotoshopで作ってみた。だいたい感じは似ていると思う。

Nisyoku

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2009年7月21日 (火)

村上春樹『1Q84』(その2)ネタばれありまくり!

 村上春樹的なるものがあって、それをよく知っていたとすれば、こんな感想は出てこないのかもしれないけど、残念ながらそんなものはオレは知らないから、あるいは幼稚な読書感想になるかもしれないけど、あえて率直な感想を書いてみた。

 前回のブログでは書ききれなかったことについて、今回触れてみたい。

ふかえりに関して

 ふかえりと天吾の「ギリヤーク人」の話。その時のふかえりはとってもかわいく思えた。ふかえりの言葉づかいもとても好きだった。結局天吾とふかえりの関係は中途半端で終わってしまい、後味が悪かった。ふたりが「パシヴァ」と「レシヴァ」の関係であったことは驚いたが、じゃあ天吾はどういう意味でそうであるのか。反リトル・ピープルとしての意味でなのだろうか。それならそれでよいが、ならばふたりの関係はもっと重要視されてもよいと思う。でも終盤ではあくまで天吾と青豆の「愛」の物語となってしまって、ふかえりの存在が急速にしぼんでしまった印象があり、残念。オレとしてはふかえりと天吾のハッピーエンドが理想だったなぁ。

感情移入に関して 

 感情移入が一番激しかったのは、後半に青豆が「さきがけ」のリーダーを消しに行く場面。かなり怖かった。出来るなら読み進めたくないと思った。もちろん主役だから最後は任務を完遂するだろうとの予想はあったが、その過程でリーダーという超人にどんな危険な目にあわされるのだろうかと思うと、正直、「その時」が来ないでほしいと思った。物語としてはあり得ないが、途中で青豆の気持ちが変わって「今回のミッションは中止する」なんてことにならないかなぁとさえ思った。

 「その時」の場面での緊張感は相当のものだった。ふたりがやりとりした話の内容については一度読んだだけではよく理解できないものだったが、ともかくリーダーが予想に反して立派な人物だったことが物語の好感度をさらに高めてくれた。

 

超自然的なものに関して

 冒頭から非常にリアリティにあふれる物語だった。最初に乗ったクラウンのタクシーから、首都高速の描写、青豆の挙動のひとつひとつ、部屋の描写、あゆみとのやりとり、もちろん天吾の方も、登場人物同士の会話の一言一句、感情、思考の流れまで、すべてがリアルでまったく違和感を感じさせない。そうであるからこそ、月が二つあることの非現実性が際立っていた。青豆の記憶に一部おかしな点があることもまた(あけぼの事件などを知らないということ)、そこにあるに違いない何らかの非現実性を思わせ、知的好奇心がめばえ、物語に引き込まれていった一因となっていた。

 ところが、リトル・ピープルと空気さなぎ、そして「さきがけ」のリーダーの特殊な能力が出てきてしまったために、いくらか物語の品質が劣化してしまった、あるいは安っぽくなってしまった感じがする。あそこでリーダーが重い時計を持ちあげなければ青豆の気持ちに変化をおこすことは難しかったのかもしれないが、でもリーダーが自分が青豆にアイスピックで殺されることを「知っていた」というだけでも十分ではなかったか。リトル・ピープルと空気さなぎの話はふかえりの書いた物語のなかだけにとどめておいてもよかったのではないか。あるいはマダムに保護されていたつばさの口から出てくるだけでよかったのではないか。

 

性的な描写に関して

 「この本いいよ~!ぜひ読んでみて!」と多くの人に言いたくても言えなくしてしまうのは、性的な描写のエグさだ。人間のリアルな側面でもあると言えばそれまでだけど、ちょっと嫌悪感を持ってしまう。その数の多さもさることながら、たとえば青豆が鏡の前に立ってチェックするのがどうして乳房と陰毛なのだろう!?女性じゃないから自信はないけど、たとえばお腹まわりだとか二の腕だとかふとももだとかではないの?ふかえりと天吾にしたって、「ベッドで重なり合った」でいいじゃん!ふかえりのイメージを壊さないで~!(笑)

 

煮え切らない謎の数々に関して

 いろいろな謎については前回のブログで書いた。重複することもあるかもしれないけど。

 小松がなんらかの方法で消されたのはいいでしょう。天吾の愛人である人妻が消されたことについては、もう少し内容を知りたかったけど、まぁいいでしょう。

 戎野先生…彼はたぶん消されてないのだろうが、どうも役者としては中途半端な役回りじゃないかな。タマルはいいでしょう。あゆみも十分。でもマダムは?彼女は一体どんな裏がある人物だったのか少し気になる。資金力も含めてそれなりに力があるようだけど、そのわりには最後にきて力の程度が弱すぎる印象。

 謎といえば、「さきがけ」の資金源はどうなった?もしかしてオレが見落としていたのか。

 とはいえ、これらの謎についてはさほど本質的なものではないからいいけど。

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『1Q84』村上春樹(前半はネタばれなし)

(途中からネタばれあり!その前に告知しますので!)

 毎度書いてるように、オレはほとんど小説は読まない。村上春樹は大昔に『ノルウェーの森』を読んだきり。その内容も覚えてないくらい。ただ、当時なんとなく「なんかふわふわした小説だなぁ」とか「こういうのが新しい時代の小説なのかぁ」と感じたような気がする。

 

 最近は本屋で立ち読みしてみて、どこか心に“引っ掛かり”ができたときに限って読み始めてたんだけど、この本は単なるミーハー的関心で読み始めた。つまりどこの本屋さんでも売り切れてた(くらい人気があった)から!

 

 結局読了するまで3週間もかかってしまった!

 文章が読みにくいというわけじゃない。むしろ非常に読みやすい。字面をそのまま理解する分にはよほど理解しやすい。やたら多く、そして驚くほど上手い「比喩」には多少うんざりすることもあったが、読んでいて「ん?」と首をひねるような表現はまず行き当らなかった。

 ただ単純に、、、つまらなかった!!

 やはり自分自身が興味があるから取り組んだというのではなく、まわりが騒いでるからきっとすごく面白いんだろう…という「よこしまな」動機で取り組み始めたからだろう、、、と自分では思っていた。

 だから1ページ目を読み終わる前に何度もあくびが出てしまい、そのたびに本を閉じた。数ページ進むごとに自分に問いかけていた、、、「このまま我慢して読み進めるべきか」と。

 あくまで読書ってのはオレにとっては「気晴らし」なんだから、やはり自分が読んでいて面白いと思えるものを読めばいいじゃん!話題があるという理由だけで飛びついたオレが浅はかだったんだ!

 

 そんな気持ちを抱えたまま200ページくらい読み進めた。あいかわらず後押ししていたのは「話題の本」なんだから!という気持ち、、、

 

 ところが!!

 戎野先生の長い語りが始まったころから変化があらわれた。

 「むむっ!?」

 「およよ!!?」(およよ…はないけど)

 

 気が付いたら270ページあたり。。。

 それからはもう全力で突っ走った!!ひたすら読みふけった!!

 どんどん引き込まれていった!!!

 あっという間に2冊読み終わった。

 

 

 とまぁ、ここまでは、「読んだ。面白かった」というだけの話。

 問題は内容、、、なんだけど、これがまた何と言ったらいいか、、、

 「難しい、、、」

 

 この手の小説ってのはどう読んだらいいのだろう?

 今まで読んできたそこらへんの小説はそのまま読んで理解したとおりでよかった気がする。「ハラハラしたぁ」、「こんな心理状態ってわかるわぁ」、「そっか、そういうことだったのかぁ」、、、とか。

 でも、この小説って、「??(謎)」が多すぎる。

 小説の書き方として、最後に読者に投げ出してしまうようなやり方、いわゆる余韻を残すとかもあるし、最初に疑問などを投げかける、いわゆる伏線みたいなテクニックもある。

 この小説は、振り返ってみれば最初から綿密に計算された伏線が散りばめられているようだ(ヤナーチェックのシンフォニエッタを聞いたとき「ねじれ」たような感覚を持った…あたりからすでにキーポイントっぽい)。とくに文中に傍点が付されているところや、太字で書かれているあたりは注意が必要なようだ。

 そして最後の部分も、「まじかよ~!」ってくらいもやもやした気持ちで終わらせられる。極上のステーキを食べていて、最後まで残しておいた一切れをまさにいただこうという間際に店員に片づけられてしまったときのように、、、

 この小説を読み込むための本も出てるくらいだから、突っ込んで深読みしていけばそれなりにずっと楽しめるんだろう。「○○○を100倍楽しむ本」とか「○○家の謎」みたいに…。読むたびに発見もあるからくり返し読んでも楽しめるだろう。

 だけど、オレとしてはそんなに楽しんでいる時間もないし、もう少しちゃんと書いてもらいたかったかなぁ、、、

 

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これからは、ネタばれあり!!

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《 心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。心から外に出ないものごとは、そこに別の世界を作り上げていく。 》

二つの月の姿も「空気さなぎ」の形も天吾の頭の中から生み出されたもの。それが天吾や青豆の生きている世界でその通りになっているというのは?まさか物語全体が天吾の小説の中の話だなんて落ちじゃないだろうけど、心から一歩も出ていないということは、天吾は小学校のあの日から進んでいないということ?

なんで最後の「空気さなぎ」の中身が小学生の頃の青豆の影なのか?その時、青豆はもう自殺したあとなのか?そもそも青豆は「本物」?

《 「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、「そうではなかったかもしれない」現在の姿だ。 》

なんかすごく難しいこと書いてるようで、まったく理解不能。

「こうであるかもしれない」未来をジョージ・オーウェルは書いた(最近、ハヤカワ文庫から新訳版が出たのでミーハーな関心から読んでるとこ)。それに引っかけて、そうであったかもしれない1984年という過去を書いたというのは面白いけど、どうせなら「そうであったかもしれない」現在を書いてくれてもよかったのかなぁと思った。それだけ。

 

 戎野先生はその後どうなったのか?ふかえりはどうなったのか?そもそもふかえりは実体だったのか?ならばなぜ生理がなかったのか?(彼女は父と交わっていなかったはず)

 なぜ青豆が再び訪れたときそこに非常階段はなかったのか?あの最初のタクシー運転手は何者で、あの「見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです。」という魅力的な言葉の意味はなんだったのか?

 天吾の発作はなぜおさまってしまったのか?いったいあの発作時に見たことは現実のことだったのか?

 リトル・ピープルはいるのか?(あはは!!)オレはいると思う!!!

 いろいろ疑問があって、それを考えながら読むのも面白いだろう。「解説本」みたいなのを買って読んでみるのも楽しいだろう。

 でも、これ以上この小説に関わっている時間はない。村上春樹マニアになりたいとも思わない。

 でも、いつかゆとりができたらもう一度読んでみたい。

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「改革を止めろ!」で自民は勝つ!

 柔軟性こそ自民党のいいところだから、改革を止めれば自民党は勝てる!

 竹中氏がテレビに出て、反竹中の人と議論すると、誰も竹中氏に勝てないのは素人目からしてもわかる。理屈では誰もかなわないように見える。

 今の日本が悪い状況なのは改革を止めたからだ!だから「改革を止めるな!」と。とても頭がいいだけじゃない。反竹中の知識人でも議論すれば腰砕けになってしまう。

 「旧来型」といわれる自民党の政策によるツケ(国の借金)やバブルのツケ(不良債権)をを解消するために改革に尽力したことを指摘されると、「旧来型」の人たちはひとたまりもない。

 また、経済合理主義は誰にとっても「正しい」ように思える。一般論としては誰もがよりお金を儲けたいし、可能な限り効率的になった方がいい。それを徹底することで行きつくであろう「小さな政府」。政府は必要最低限のことをすればよく、それ以外のもろもろのことは基本的に市場メカニズムが自動的に解決してくれる。おお、それこそ「理想」的な社会!

 けれど、どうやらそれもかりそめの社会でしかないように思える。市場に多くをゆだねる社会は、きっと少数の勝者と大多数の歯医者…じゃなくて敗者に分かれてしまう。少しの間ならそんな感じでもバランスを崩すことはないけれど、そんなものは早晩崩れるに決まっている。

 現実に起こっている。福祉や医療や雇用なんかでひずみが出ている。

 「転向」した中谷巌氏であっても竹中氏と議論すると腰砕けになってしまうように、理屈では経済合理主義に太刀打ちできないようだけど、それらを凌駕するのがある。それは、「現実」というものだろう。どんなに頭がいい知識人でも、どんなに理にかなっていたとしても、世の中はそのようにはいかない。理屈ではとらえきれないのが現実というものだから。どんな高級な理論も複雑で多様な現実の一面でしかない。(現実を自然と言い換えてもいいだろう。私たち人間も自然の一部)

 グローバルな経済競争が起こっているのだから、日本だけ例外的に国内でちまちま和気あいあいに生きていくわけにはいかない!ということで、これまでの政権がやってきたことは必要に迫られたことだったとも言えるかもしれない。

 しかしながら、世界的不況が起こってしまった今では、どの国でも「反動」が起こっているわけで、それにもかかわらず「改革を止めるな!」を金科玉条のように唱えているようじゃ、それこそ日本の浮揚(!?)はあり得ないように思う。

 現実に自民党政権が国民からそっぽを向かれようとしているということ、民主党に流れが向いていることの意味をよく考えてみればいい。

 中川秀直氏らの抵抗はおそらく自民党をさらに破滅的な道へと導くような気がする。仮にそれが「正しい」ことだとしても、とりあえずは「一時停止」ボタンを押す方が得策だ。自分の主義・信条に命をかけてるというなら仕方ないけど。

 別に自民党政権を応援しているわけじゃない。ただ、自民党が生き残りたいならそうするしかないんじゃないかとふと思っただけ。

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2009年7月20日 (月)

与党自民公明のどこにうんざり!?

 本当は政策とかでしっかり選ぶべきなんだろうけど、なにが嫌かというと、民主党の小沢とか鳩山とかへの攻撃!

 見てて本当に嫌になる!!

 うんざりする!!

 自民党内部のごたごたなんて勝手にやってればいい。まとまりがなくてこの先不安というのが「まともな」考えなんだろうけど、そこじゃないよ!少なくともオレは!

 自分のとこの不祥事は棚に上げて、相手の弱みばかり責めてるとこ(小沢・鳩山問題)が見ていて、まったく情けない!!支持率低下ってそこなんじゃないの!?

 「政治とカネ」は重要なテーマだ!なんていうけど、そんなもん自分たちで襟を正せないってだけじゃん!そんなことがテーマになること自体、国民からしたらいい加減にしろ!って感じ。いったいどれだけ長い間「政治とカネ」がテーマになってるんだよ!!

 相手の政策への批判っていうと、馬鹿のひとつ覚えみたいに「財源はどうするんだ!?」ばかり。よくよくみてると結局与党だって財源を埋蔵金に求めたりしてるじゃん。最初の頃は埋蔵金なんて無いとか、赤字公債は発行しないとか言ってたのに、いつのまにか使ってるし。

 公明党の人がいうように、民主党には「現実性」がないから政権とっても不安なのは不安だけど、考えてみれば民主党が政権とって実際に政策をやっていけばそれがそのときの「現実性」になるんだろう。

 自民党内のごたごたも、傍から見れば選挙に受かりたいことしか考えてない連中の「あがき」って見えちゃうよ。

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2009年7月14日 (火)

脳死、臓器移植について(その3)

 「人の死」の概念が変わった。

 心臓が動き、脈を打ち、身体は温かく、自分の力でなくとも呼吸もしている…それでも一定の「基準」を満たしたら「脳死」と判定され、「ご臨終です」と宣言される。

 移植を心待ちにしている人々がいる。救える命がそこにあるのに救えなかった。でも、これからはそれらの人々を救える可能性がかなり高くなるだろう。一方の現実がある。

 これまでは救えていた命、少なくとも最後まで救おうと最善を尽くすことが可能だった命が、これからは早々に「打ち切り」される可能性がかなり高くなりそうだ。もう一方の現実。

 A案推進側は何年も待たされたというが、せめて裁判員制度くらい国民に広く周知させてから決めてほしかったと思う。誰もが両方の側に立つ可能性もあるし、なかなか理屈では割り切れず感情的な問題でもあるから簡単に決められることではないだろうけど。

 決まってしまった以上は、くれぐれも慎重に脳死の判断をしてもらうよう祈るしかない。

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2009年7月12日 (日)

東京都議選に注目せざるを得ないが

 いよいよ東京都議選だ~!!

 、、、て、オレには直接関係ね~し!!

 都政がどうなろうと、東京都民じゃないから、、、

 候補者が誰でどんなこと訴えてるんだかも知らないし。

 別に、都議選が来る衆院選の前哨戦だということを頭から否定するつもりはないけど、もし今回自民派が負けたら首相を切るだとかってことになったら、それこそ国民をなめてんのか!!と言いたくなるだろう。

 東京は日本の縮図とか地方との対立軸とかってことさら強調する気もない。そもそも都議選の候補者たちは「私なら日本をこうする!」とか語ってるわけじゃないだろー!?「霞が関をぶっ壊す!」なんてこと言ってるかぁー!?(霞が関ぶっ壊したら大変だけど)

 去年あたりから都議選に命かけてたのは公明党だったような気がするけど、いまじゃ自民、民主入り乱れての壮絶なバトル!って感じでさー

 南国の「傲慢・勘違い・KY」知事が話題になったけど、あの人いなかったら完全に地方の存在感なくなるね!

 とか言いつつ、これだけ騒がれちゃ注目しないわけにはいかないね(笑)

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2009年7月11日 (土)

フラフープが出来ない

 昨日、カインズホームに買い物に行ったら、たまたまフラフープを見つけた。780円だった。

 やってみた。

 まともに回らない。回せない。。。

 なになに??

 「そこらへんに売ってるおもちゃじゃ回せないよ!」って、どこかのブログで書いてた、、、

 買ったのは直径85cm、重さ200g、太さは…細い。

 やっぱ3,000円とか6,000円とかするの買わなきゃダメなんだろうか…

 ためしに身近にあったビニルテープ(19mm X 20m)を捲いてみた。30分くらいかけて一個全部捲いてみた。

 重さが250gに増えていた。

 おっと~!!!

 いきなり回る!!

 回せる!!!……5回くらい。

 よし!さらにもう一本ビニルテープを捲いてみた。また一個全部使った。

 重さは300gに増えた。

 いざ!!!

 今度はいまいちだ~!!なぜ???

 何回かチャレンジして、やっと回せた!5回くらい。。。

 う~ん、、、やっぱり「本物」買わなきゃだめなのかなぁ、、、、

 てか、、、男でフラフープってどーなんだろー???

 昨日一緒に買ったGirl friendにメールした。「昨日のフラフープはねぇ、、、直径が85cmで重さが……今度、スポーツ店でも行ってまともなの買おうよ!やはり直径は95cm以上で重さは500g以上で……」

 「わたし、普通に回せたよ!」

 「えっ!?(・ ・);;;」

 モノのせいじゃなかったの、、、!?

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2009年7月 2日 (木)

脳死、臓器移植について(その2)

 先日、「臓器移植法」改正案の「A案」が賛成多数で衆議院を通過した。もうすぐ参議院にて審議、採決が行われるようだ。

 この法案に関しては、基本的に政党を超えて各議員の個人的意思で投票が行われている。たとえば、、、賛成では自民202人、民主41人、公明12人など。一方の反対票は自民77人、民主65人、公明18人などとなっている。ちなみに麻生総理はD案支持ということでA案には反対だったそうだ。

 正直なところオレは、今回の改正案提出があるまでは関心がなかった。

 現行法が成立して10数年、世間的にはほとんど注目されてこなかったと思うが、その間にも移植を必要とする多くの難病患者が亡くなっていったという。臓器提供を待つそうした患者(レシピエント)からすれば、現行法の臓器移植のハードルの高さを早くどうにかしたいと切実に思い続けてきただろう。

 今回衆院を通過したA案は、私たち人間の「死」を「脳死になった時点」だと法的に明確に規定するものだ。(A案~D案までの詳細についてはこちらがわかりやすい)

 私たち日本人は長い間、「心臓が停止」した時をもってはじめて「亡くなった!」とみなしてきた。それが私たちの常識的な死の感覚だった。

 いろいろなケースがあるだろうが、言われている「脳死」時点というのは、まだ心臓が動いていて身体中に血液が流れているため、身体も温かく脈もあるという。ただしそれは、人工呼吸器をつけているからこそ可能となる状態であって、すでに「脳幹」という生きる上で最も基本的な自発的呼吸などの機能を司っている部分が停止したという点で「死んだも同然」なのだという。

 「死んだも同然」というのは、「脳死=脳幹死」になれば人工呼吸器を外せばじきに「心臓死」に至るわけで、不可逆的な死へのプロセスのひとつだというわけだから、「脳死」をもって「人の死」と定めてもよいだろうということだ。

 すなわち、死とはそもそも不可逆的なプロセスだとなれば、心臓死だってそのプロセスの一時点にすぎないわけで、おそらくは分かり易さのために昔からの慣習として私たちは「心臓死」を死の基準としてきたのだろうから、それが「脳死」時点に変更したってよいじゃないか!という議論だ。(たぶん、こういう解釈で間違いないと思う)

 じゃあなんで、私たちの長年の「死生観」を変更する必要があるのかといえば、やはり「脳死」を人の死だと法的に規定することに大きなメリットがあるからだろう。すなわち、より多くの臓器を苦しんでいる人たちに提供できるからだ!!

 というのも、「脳死」が「人の死」だと法的に決められていなければ、その状態で心臓などの臓器を取り出すのは「殺人」になってしまうのだから。ちなみに現行法では、脳死者本人があらかじめ臓器提供の意思表示をしていれば「脳死」を人の死とできる。

 また、より多くの臓器を提供できることは、たとえば最近オレの保険証が更新され、裏側に臓器提供意思表示欄が付加されたので、そちらを見ればわかる。

Brain_d_2

 今回のA案の特徴は、上に書いたように、①「脳死」を(本人の生前の意思に関わらず)一律「人の死」とすること、そのほか、②臓器を提供可能な年齢を、現行の15歳以上から0歳以上とすること、③臓器を提供するさいの条件を、本人が生前に拒否していなければ家族の同意のみでよいとすること(現行法では本人が生前に臓器提供の意思表示をしていなければダメだった)、などだ。

 実はこの③の規定があるため、今回のA案が成立し施行されれば、たとえば上の保険証の写真にあるような意思表示(ドナーカード)がとっても重要になってくる。

 脳死判定後に「使える臓器をすべて提供してもよい!」という人はよいが、問題は「オレは(すべての)臓器提供なんてイヤだ~!!」という人の場合だ。

 何らかのかたちで「拒否の意思表示」をしておかなければ、万が一脳死判定を受けた場合、家族が説得されたら強制的に臓器提供させられてしまうからだ。

 A案提起者が言う「臓器移植を認めない人、脳死を認めない人の権利も十分に保障・担保している」ということが実際に機能するためには、今回のような法案の中身について広く国民の間に知れ渡っていなければならないのだろう。だから、裁判員制度のような徹底した周知が必要だと思う。

 先日放送された、ビートたけしの「TVタックル」で、自身も父に対して生体部分肝移植をした河野自民党議員が、「いったいあと何人殺せばいいのか!」などと過激な発言をしていた。それだけ真剣にレシピエントのことを考えていればこそだと思う。救える命があるのにそれを「見殺し」にしているという主張に対して、なかなか反論できない雰囲気がある。誰だってそう言われたら黙らざるを得ない。オレもその主張はもちろん正論だと思う。けれど、人の命を扱う重大な問題だけに、オレ自身も含めてもっともっと国民的な幅広い意思の共有がなければならないんじゃないかとも思う。

 共産党の小池氏らのいう「E案」のごとき、ここ1年という時期を目途にというのもどうかと思う。時間的・量的な問題というより、国民を巻き込んでの質的な議論が必要じゃないだろうか?それによっては半年になるかもしれないし、2、3年かかってしまうかもしれない。急を要する問題ではあるが、ことはそれほど簡単ではない。

 あえて言えば、人道的・道義的などをたてにしてA案に賛同しない人が何も言えないような状況には疑問だ!

 レシピエントの立場に立てば一刻も早くA案だ!というのはわかる。ただ、「脳死」にはいろいろな問題もあるということも知った上で議論しなければいけないと思う。ざっと代表的な問題を挙げれば、、、

★「提供したい人がいて、提供されたい人がいるなら問題ないじゃないか!」というが、それは「自己決定」原則があればこそだ。0歳から可能とするということは自己決定の原則を放棄することになる。

★少なくとも臓器移植に関連して経済的利害が生じるわけだから(移植コーディネーター、移植医など)、経済行為に伴う問題がないとは言えない。脳死となりそうな人を最後まで救おうと努力しない医師が出ないか?

★ホームレス、不法就労外国人、死刑囚、その他身元不明者が脳死になった場合、本人の意思も家族の同意もなくドナーになることがあるだろう。また彼らはドナーにはなってもレシピエントになることはないだろう。社会的弱者はドナーになれてもレシピエントになるにはハードルが高いのではないか。税金でも投入するのか。その場合国民の公平性は大丈夫か。

★そもそも「脳死」者は本当に意識がないのか!?痛がっていないのか?実際、人工呼吸器を外すともがき暴れることもあるという。血圧上昇、不整脈となるなど。死んだ人間が暴れるために麻酔を打って臓器摘出しなければならないという事実をどう考えたらいいのか??

★テレビ報道は偏向していないか?レシピエント側の立場でしか報道されていないのではないか?

 TVタックルの最後にたけしがコメントしたとおり、脳死臓器移植に頼らない方法(人工臓器の開発やES細胞の開発など)にもっと金を振り向けた方がいいんじゃないか!

(参考にした本)

①(脳死臓器移植反対の立場。ややラディカル過ぎ?心情に響かないけど)

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②(反対の立場。詳しい。心情に訴えかける。良書だと思う)

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③(賛成の立場。レシピエントの思いが伝わってくる。反対の本を読んでからだと、また違った感想を持ってしまうかも…)

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脳死、臓器移植について(その1)

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「お母様、お父様、息子さんはかなり危険な状態です」

「そんな、先生!なんとか息子を、タカシを助けてください!」

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「よく聞いてください。タカシくんは事故で脳に重大な損傷を受けてしまいました。この救急センターに運ばれてから、すでに8時間以上経っています。身元がわからずご連絡が遅れまして、大変遺憾に思っております。私どもも、可能な限りの処置をしたつもりですが、ごらんのような昏睡状態が続いており…」

「お願いです。先生。なんとか助けてください!」

「残酷なようですが、すでに数時間前に一度、脳幹反射テスト…すなわち光に対する反射や咳を起こす反射などのテスト、それから痛み刺激に対する反応などのテストをしたのですが、いずれも残念な結果となりました」

「それはいったい、どういう意味ですか?」

「つまり、『脳死判定基準』というものに従って実施された『脳死診断』というものをおこなったわけでして、その結果という意味です」

「脳死……ですか」

「そうです。タカシさんは…、ご覧のように搬送時から深い昏睡状態にあり、脳波も平たんな波形を描いております」

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「いまここで、ご両親の前で、ふたたび『脳死診断』をさせていただいているのです。このように、皮膚にいくら刺してもお顔の筋肉にもまったく変化がございません」

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「最後に人工呼吸器を止めましての『自発呼吸の有無』を調べます」

「そんなことしたら、息ができなくてタカシが…タカシが本当に死んでしまうじゃありませんか!!」

「どうか、落ち着いてください。わたしどもは彼、タカシくんの呼吸中枢の機能を調べるだけです。あらかじめ危険性のないように準備された状態でおこなわれますので、タカシくんの脳幹の機能が働いていれば、必ず自発呼吸するのです」

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「やはり、息子さんは残念ながら、脳死ということになります」

「で、でも、ほら!先生、見てください!!タカシの腕が動いているじゃないですか!!」

「落ち着いてください、お母様。これは一種の脊椎反射という自然現象なのです」

「でも、タカシはこうして動いているんですよ!」

「残念ですが、まちがいなく『脳死』の状態です」

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数分の後

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「では、ただいま説明しました通り、先ごろ施行した『改正臓器移植法』により、ご本人様による生前の“ドネーション拒否”の意思表示が見当たりませんので、ご本人様は現在順番を待っておられる重症のレシピエント(移植待ち患者)に対して臓器提供の意思が有るとみなされます。息子さんの意思としてどうぞ苦しんでおられるレシピエントの方への臓器提供をご両親にも承諾願いたいのですが、いかがでしょうか?きっと、息子さんも天国でご自身の臓器によって別の命が救われることを望んでおられるに違いありませんよ!!」

「……」

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さらに数分の後

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「それでは、ただちに臓器の摘出術に入らせていただきます。センターの屋上には救急ヘリが待機しております」

「息子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます」

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切開の際、脳死者が激しく動いたので麻酔が打たれ、 元気に脈動する心臓が摘出され、すぐにヘリのある屋上へと運ばれていった。

脳死とされたタカシの目から静かにこぼれ落ちた涙の粒を、執刀医がそっと指先でぬぐったことに、ほかの誰も気付かなかった。

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